[CML 004691] 『ザ・コーヴ』『靖国』上映妨害は表現の自由の侵害(下)
Hayariki
hedomura2 at hotmail.co.jp
2010年 6月 25日 (金) 20:53:22 JST
【PJニュース 2010年6月23日】第3に政治の動きである。和歌山県太地町は『ザ・コーヴ』が住民の肖像権を侵害し、虚偽の事項を事実のように示しているとして、配給元に上映中止を求めた。
『靖国』でも上映中止の背景には稲田朋美・衆議院議員らによる様々な政治的圧力があったと主張された。上述の出演者・刈谷氏が出演部分の削除を求めたとされる件も、有村治子参議院議員が刈谷氏に電話で削除依頼をするように促したと映画製作側からは主張された。
http://news.livedoor.com/article/detail/4843053/
http://www.pjnews.net/news/794/20100620_7
これら公権力が映画に批判的な態度をとっているという事実は上映の問題が表現の自由の問題であることを示している。公務員による発言は私人の言論活動と同視できない。表現の自由の重要性は以下の理由がある。
(1)表現の自由には傷つきやすく、一度侵害されたならば回復されにくいという脆弱性がある。
(2)表現の自由は優越的地位が認められている。この優越的地位とは憲法が保障する諸々の人権(財産権など)と比較してのものである。真の意味で国民主権を実現するためには自由な議論が不可欠であり、表現の自由は民主主義社会の基盤となるものだからである。
以上より、公権力は国民の表現の自由を最大限尊重しなければならない。その行使にあたっては、表現の自由を損なわないよう、慎重さが求められる。
この点で、『靖国』における稲田議員らの行動は問題であった。稲田議員らは『靖国』公開前に試写を要求し、日本国憲法の禁止する検閲に該当すると批判された。日本国憲法第21条第1項は「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」と定める。第2項は「検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」と定める。国会議員が権力(国政調査権)を行使して表現の自由を侵害するならば、紛れもなく憲法違反になる。
国会議員が試写を要求すること、出演者またはその妻に出演の意図について直接電話をかけて確認すること自体が通常では行われない尋常ではないことである。大日本帝国のシンボルである靖国神社を批判したのだから、権力者から釈明が求められるのは当然という前提に立つならば、その発想自体が表現の自由を侵害する。
後になって稲田議員らは助成金の使途確認を目的としたもので、上映中止を目的としてはいないと釈明した。この事後的な見え透いた言い訳は、表現の自由の侵害を論じる上で無意味である。もし真に上映中止を狙ったものでないならば、検閲と批判されるような真似はすべきではなかった。
検閲に該当するようなことをしなくても、調査の目的は達成できるにもかかわらず、あえて検閲と批判されるような主張を採ったならば表現の自由の侵害になる。試写会を開く目的は映画館に圧力をかけるのが目的であったとみなされても否定できない。国政調査権の行使ならば表現の自由を侵害が許されるわけではない。ことさら『靖国』を狙い撃ちにするような調査ならば、表現の自由を侵害する意図があったとの批判は免れない。
表現の自由を侵害された側が侵害された側に悪意がなかったと御目出度い解釈することは正義・公平に反する。「選良である我々が観て反日的でないという御墨付きを与えた後で、国民向けに上映することを許してやる」という不遜な態度が見え隠れすると悪意に解釈されても仕方がない。「私たちの勉強会は公的な助成金が妥当かどうかの1点に絞って問題にしてきたので上映中止は残念」などと他人事のような論評が反発を受けたことも自然である。
『靖国』製作側が稲田議員らの意図を変に物分りよく議員に媚びた解釈をせずに、表現の自由の侵害と抗議の声をあげたことは賢明な姿勢であった。『靖国』製作側が過剰反応し過ぎとの批判もあるが、問題は表現の自由が損なわれるような圧力がかけられたことである。影響力が相対的に小さい一期・二期の国会議員であろうと国政調査権という公権力を振りかざして表現の自由を侵害しようとすることは許されない。
圧力をかけられた側が、大した圧力でないからという理由だけで大騒ぎしてはならないということにはならない。影響力は相対的に小さかったとしても、不当な圧力に対して、耐え忍ぶことが美徳ではない。対立者の小さな過ちを見過ごし、笑って済ませてしまうことは度量の大きさではなく、間抜けさを示すものである。特に加害者でありながら被害者に向かって無反省にも「済んだことをいつまでもガタガタいうな」と言ってのける傾向がある日本人に対しては、過去の過ちを前提とすることは大切である。
過去を水に流して焼け野原から経済大国にしてしまう類の前に進むことしかできない連中のように打たれ強くなることは美点ではなく、愚かしい欠点である。『靖国』騒動で製作側が前に進むことしかできない発想で、生産的な方向にエネルギーを注力するような真似をしなかったことは高く評価できる。『靖国』製作側が対立者からは過剰と批判されるくらいの敏感な反応をしたことは感受性の鋭さを示しており、この上なく正しい選択であった。そこには『ザ・コーヴ』も学べる教訓がある。【了】
林田力(『東急不動産だまし売り裁判 こうして勝った』著者)
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