[CML 004597] ガザ自由船団の目撃者
Ken Masuoka
kmasuoka at jca.apc.org
2010年 6月 19日 (土) 08:16:28 JST
CMLの皆様:
益岡@東ティモール全国協議会と申します。マビ・マルマラに乗っていた
カナダ人のお話をざっと日本語にしましたので紹介いたします。ウェブで
は、
http://trans-aid.jp/
http://jca.apc.org/~kmasuoka/
にアップします。
マビ・マルマラに対するイスラエル軍の攻撃の目撃者
デーブ・リンドルフ
http://www.thiscantbehappening.net/node/101
2010年6月15日(火)
ブリティッシュコロンビア州ビクトリアのケビン・ネイシュは、イスタンブ
ールからオタワへ向かう飛行機に乗り込もうとするときまで自分が有名人に
なったことを知らなかった。「美しい服を着たアラブ人女性が私のところに
駆け寄ってきて叫んだのです。『あなただ! アラブのTVで見ました!
誰もが知っています!』」。ネイシュはそのときのことを笑い声で説明する。
「何を話しているかわかりませんでしたが、彼女は『イスラエル奇襲部隊の
本を眺めているあなたを見ました! 何度も何度も放送されています!』」。
落ち着いた口調の教師で、カナダ国防省の文民技師をしていたこともあるネ
イシュは、それでようやく、イスラエル軍がガザへ向かう自由船団を攻撃し
ている最中にアラブのTVカメラマンが撮影したブックレットを眺めている彼
の姿が、船団からの電子信号をイスラエルが妨害する前に送信されたことを
知った。乗っていた人々全員の写真と経歴が掲載されていたそのブックレッ
トは、ネイシュがイスラエル軍奇襲部隊員のバックパックから見つけたもの
だった。
5月31日早朝まだ暗い中でイスラエル軍が着発手榴弾と催涙ガス、銃弾の雨
により自由船団の主船、トルコ船籍のマビ・マルマラ号に攻撃を仕掛けてき
たとき、53歳のネイシュは、マビ・マルマラ号の第2デッキ----船尾が見渡
せるところだった----に乗っていた。彼は第4デッキの吹き抜けに移動し、
犠牲者が即席の診療所に運び込まれる光景を目にしながら写真を撮っていた。
乗客と乗員に拘束されたイスラエル軍奇襲部隊員数人も彼の横を運ばれてい
った。
「人々がこのイスラエル軍兵士を下に連れていくのを目にしました」と彼は
言う。「兵士はおびえていました。殺されると思っているような様子でした。
IDFの発砲で乗客が重傷を負ったのを見て頭に来た大柄なトルコ人がこの兵
士を殴ろうとしたとき、トルコ人救援隊員たちが彼を押し止めて壁に押さえ
つけたのです。イスラエル軍兵士の命を守ったのです」。
この兵士が落としたバックパックにネイシュが気づいたのはそのときだった。
「中を見て、何を持っているのか調べようと思いました」とネイシュは話す。
「中にはこのブックレットのようなものが入っていました。英語とヘブライ
語で船団の全船に乗っている人の写真と名前が書いてあったのです。さらに、
マビ・マルマラ号のデッキを詳しく描いた図もありました」。
そうしているうちに、イスラエル軍の攻撃で撃たれた人々、死にかけている
人々、すでに死んだ人々が上から階段で次々と運ばれてきた。「自分のカメ
ラで死者と負傷者の写真を丁寧に撮りました」と彼は言う。「側頭部に二つ
の弾痕がきれいに並んで開いた状態の遺体が数体ありました----彼らが処刑
されたことは明らかでした」。
ネイシュは船上で拘束され数日間イスラエルで投獄されていたが、写真をイ
スラエルからトルコに持ち出すことに成功した。「メモリーカードを取り出
してから、カメラをはじめ電気電子製品はすべてイスラエル軍に渡しました。
チップはあちこち場所を変えてかくして見つからないようにしました」と彼
は言う。「イスラエル軍はカメラとコンピュータをすべて没収しました。叩
き壊したものも持ち去ったものもあります。チップは舌の裏にかくしたり、
尻や靴下など色々なところに隠して見つからないようにしたのです」。結局、
チップはトルコ航空で帰国することになったトルコ人に渡すことができた。
メモリーカードは「自由ガザ」という組織の手に渡り、写真の一部が公開さ
れたことを確認したという。つまり、写真をうまく持ち出すことができたこ
とがわかったのである。
イスラエル軍奇襲部隊は武器としてペイントガンと9ミリピストルしか持っ
ていなかったというイスラエルの主張は「まったくでたらめだ」と話す。
「階段の吹き抜けにいたとき、奇襲部隊兵士が上のハッチを持ち上げて機関
銃を突っ込み、撃ち始めました。銃弾が一面に跳ね返りました。兵士が覗き
込んで中を確認していたら、私の命はなかったでしょう。けれども吹き抜け
にいたトルコ人2人が救命ボートのアクセスポイントから持ってきた短い鎖
を持っていて、ハッチの脇に立ち、機関銃の銃身に鎖を叩きつけたのです。
兵士を叩こうとしたのか機関銃を取ろうとしたのかはわかりませんが、イス
ラエル軍兵士が身を引いたので、ハッチを閉じて鍵を締めたのです。
「ペイントガンなんか一つも見ませんでした。ペイントボールもどこにもあ
りませんでした」。
乗客の中で銃を持っていた人も一人も見なかったと彼は言う。「私はずっと
船の中にいましたが、乗員や援助職員が武器を持っていたこはまったくあり
ません」と彼は言う。実は、ネイシュは当初、チャレンジャーII という名の、
より小さな70フィートのヨットに乗っていたのだが、キプロスに立ち寄った
ときにマビ・マルマラに移った経緯があった。イスラエルの工作員がチャレ
ンジャーIIに細工をしたため(イスラエル政府はのちにこれを認めた)、チ
ャレンジャーIIが操縦不能になったためであった。「マビ・マルマラに乗る
ときには身体検査を受けましたし、武器がないかどうか手荷物も調べられま
した」と彼は言う。「私は技師ですので、ポケットナイフを持っていました
が、検査員はそれを取り上げ、海に投げ込みました。今回の航海では乗客は
どんな武器を持つことも認められなかったのです。この点については細心の
注意を払っていました」。
イスラエル軍の攻撃の際に彼が目にしたのは弾傷だった。「殺された数人を
この目で見ましたし、数十人のけが人も見ました。胸に大きな穴を開けた年
嵩の人が壁にもたれていました。私が写真を撮っている間に彼は死にました」。
殺されたことが確認されている9人のほとんどを自分の目で見ているし、負
傷者40人の大部分も見たとネイシュは言う。「それほど重い怪我ではないけ
が人は、さらにたくさんいました。イスラエルの監獄で、ナイフ傷を負った
り骨を折っていた人々に会いました。中には、連れ出されて一人になるのが
いやで怪我を隠している人々もいました」。「当初、乗っていた人々のうち
16人が殺されたという報道がありました。船の診療所は16人と言っていまし
た。海に投げ捨てられた遺体がある恐れもあります。けれども、今では、行
方のわからない7人については、家族からも何の連絡もないので、イスラエ
ルのスパイではなかったかと人々は思い始めています」。
イスラエル軍はマビ・マルマラを制圧したのち、乗客と乗員を集めて、男た
ちをデッキの一カ所に、女たちを別の場所に集めた。 男たちは座るよう命令
され、プラスチックの手錠を掛けられた。ネイシュによると、あまりにきつ
く縛られたので、手首は切れ、手は紫に腫れ上がったという(それにより彼
の手の神経は今も傷ついているが、カナダの医師は、少しずつそのまま回復
するだろうと言っている)。
「兵士は私たちに黙るよう言いました」。「ところが、途中でトルコ人のイマ
ームが立ち上がり、 アザーンを歌い始めたのです。誰もが静まり返っていま
した----イスラエル兵もです。けれども、10秒くらいして、イスラエル軍士官
が座っている人を踏みつけて走りより、ピストルを取り出してイマームの頭に
突きつけ、英語で「黙れ!」と叫びました。イマームは彼をまっすぐ見つめて
歌い続けたのです! ジーザス、彼は殺される、と思いました。それから、多
分私がここにいたのも何かの縁だろうと思って、立ち上がりました。くだんの
士官は振り向いて、今度は私の頭に銃を突きつけました。そのときイマームは
歌を終えて座り、私も座ったのです」。
イスラエル軍に乗っ取られた船団がイスラエルの港アシュドットに向かう中、
捕虜にされた人々には食事も水も与えられなかった。「与えられたものといえ
ば、船倉からイスラエル軍が盗み出したチョコレートバーだけでした」とネイ
シュは言う。「トイレに行くために懇願しなくてはならず、ズボンに出さざる
を得なかった人もたくさんいました」。
イスラエルの監獄に移されてからも、状況はさほど改善されなかった。ネイシ
ュと、一緒に捕虜になった人々は、半日以上何も食べていなかったが、凍った
パンの塊とキュウリを投げ込まれただけだという。
2日目に、カナダ大使館の職員がやってきて、ネイシュの名前を呼んだ。「監
房を一つ一つ回って私を探していたのです」とネイシュは言う。「娘がカナダ
政府に、私が船団に乗っていたことを必死になって訴えていました。イスラエ
ルは、私の名前を把握してどこにいるかも知っていたのですが、カナダ大使館
の職員に教えなかったのです。大使館職員も、そして娘も、私が殺されたと思
っていたようです。最初に攻撃された場所の近くにいたという話が伝わってい
たためです。よかったことといえば、私の名前を呼んで回っているときに、大
使館職員は、偶然、そこにいることを把握していなかったアラブ生まれのカナ
ダ人2人も見つけ出せたことです」。
「職員がついに私の監房にやってきたので、私は返事をしました。『ケビンで
すか? 死んだと聞いていたのですが』と職員は言いました」。
数日間拘束されたのち、今度は大慌てで全員がベングリオン空港に移され、ト
ルコ行きの飛行機に載せられた。「イスラエルの弁護士たちが、公開上で私た
ちを拘留したのは不法であると私たちのケースを最高裁に訴えていたことがわ
かりました。最高裁がイスラエル軍に、私たちを船に戻して船を行かせるよう
命ずる可能性があったので、イスラエル政府は私たちをすぐにイスラエルから
追い出して訴えの意味をなくそうとしたのです。けれども、おそらくはモサド
(イスラエルの諜報機関)に連れ去られた人が2人いました。ですから、私た
ちは『2人を戻すまでは私たちもここを動かない』と言ったのです」。
2人は戻され、他の人々と一緒にイスラエル国外に出ることを許された。
「正直、イスラエル軍が船に乗り込んでくるとは全然思っていませんでした」
とネイシュは話す。「ガザに行けると思っていたのです。自由ガザ運動の一環
でしたし、運動はこれまでも何度か援助を試み、うまくいったり妨害されたり
しましたが、今回は大船団でした。止められて捜索を受けるかもしれないとは
思っていました。最初に乗っていたチャレンジャーII号には、ドイツの国会議
員3人とアン・ライト中佐というお偉方、それに私が乗っていただけです」。
イスラエルの監獄にいたとき、恐らくはイラクやアフガニスタンで軍務に就い
ている多くの米兵よりもたくさんの死者と惨劇を目撃しただろうネイシュは、
暴力の記憶に耐えられなくなった。「取り乱して、泣き出しました」。「体の
大きなトルコ人がやってきて、『どうした?』と聞いてきました。『16人もが
殺されたんだ』と答えました」。
「『すばらしい大義のために命を落としたんだ。満足しているに違いない。あ
なたは戻ったら、見たことを伝えればよい』。彼はこう言ったのです」。
【元記事の独立系サイトでは運営資金の援助も募集しています。http://www.thiscantbehappening.net/supportus】
--
Ken Masuoka <kmasuoka at jca.apc.org>
CML メーリングリストの案内