[CML 004516] ツイッター現象の「孤独」について

higashimoto takashi taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2010年 6月 13日 (日) 16:31:24 JST


私たちの国のツイッター現象はさらにさらに拡大の様相を帯びています。私はツイッターの利便性(有効
に利用する限りにおいて)を否定するものではありません。が、私は、ツイッターのワンフレーズのつぶや
きの特性にふれて、ツイッターという道具の持つ小泉純一郎流の「ワンフレーズ・ポリティクス」への回帰
の危険性、私たち日本人が関東大震災で経験したあの忌わしい「流言飛語」的側面の危険性について
指摘しましたが、その指摘を変更するつもりはありません。それどころかその指摘はツイッター現象のさ
らなる拡大の様相を見るにつけ、ますます重要になってきているものと考えます。
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/3011742.html

私たちの国で携帯電話が爆発的に普及したとき、私はその風俗に大きな違和感を持ちましたが、辺見
庸も同様の違和感を持っていたらしく、その違和感のきたるべきゆえんを次のように表現しています。
私たちの国のいまのツイッター現象を「思想」として考えてみる上で深秀なサジェスチョンにもなっている
ように思います。

以前、本MLで「男泣き」の話が少し話題になりましたが、作家の丸谷才一は『男泣きについての文学論』
の中で「高度成長以後、男は泣かなくなった」、と指摘しています。そして柳田国男の『涕泣史談』を引用
して戦後「泣く回数がへったことと並べて、人間がおしゃべりになった」とも。ツイッター現象と関係がある
のか、ないのか。興味深い指摘です。

以下、辺見庸の「機器の孤独」という文章を転載します。

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機器の孤独(辺見庸 『眼の探索』 朝日新聞社 1998年)

 電車って、ときどき医師のいない移動病棟のようだ。患者というか乗客が、何人もてんでにモノローグ
をはじめたりする。招き猫の格好をして。電話といっても、あれじゃまるで独り言だ。
 隣の男が見えない相手をいきなり大声で叱りつける。五寸釘を脳みそに打ちこまれたみたいに私は
驚く。そのまた隣の女は、いない相手にしきりに猫なぜ声を出す。ひとりでへこへこお辞儀している男も
いる。怒ったり囁いたり命じたり謝ったり。
 怖いよ。やめてくれよ、と思うけれど、自分にいい聞かせる。我慢しなくっちゃ。いつか慣れるさ。でも、
声が交錯して、頭蓋骨のなかを蟻がはいまわるみたいだ。まともに考えるなんてできゃしない。顔が固
まる。いっしょに瘋癲になるしかない。
 公園だって安心できない。
 夜更けに集合住宅の児童公園の前を通る。ジャングルジムのあたりから押し殺した声がする。足が
凍りつく。「絶対、許せない」。女だ。「殺してやりたい」と声はつづく。殺したい相手はそこにいない。夜
陰に乗じたつもりで、ひとり呪っている。顔を高層住宅の上に向け、やはり招き猫の手つきで。たぶん、
なかにファミリーがいる。亭主がやはり押し殺した声で姿なき女に応じているのだろう。「君、困るよ」と
かなんとか。
 人を恨むのはいい、怒鳴るのも結構。だが、伝達のしかたが不気味だと思う。
 携帯電話のある風景とそれほど和解できないのなら、と友人は諭す。「君も一台持つことだ。ともに
病むのさ」。
 名案である。三千六百万台という携帯電話とPHSの音が、この国の頭蓋骨のなかを無数の狂った
蟻みたいにざわざわと迷走している。加入が一人増えたところでどうということはない。が、だめだ。
そうまでして語るべきことはなし、伝えるべき相手も、よくよく考えれば、いやしない。それに、自分が
一個の動く端末になるという想像にひるむ。
 かつて、紛争中のソマリアからインマルサットの移動電話で東京と交信したことがある。砲声に怯え
ながら話しているのに、いやに音声明瞭なのが間尺に合わぬ気がしたことだ。東京側は、音声明瞭
なら万事伝達可能と信じているふしがあり、それも阿呆らしく思われた。
 機器が的確な伝達と描写を可能ならしめるのでない。眼前のおびただしい死は、機器などどうあれ、
言葉に腐心してさえ容易に語れるものでなく、かりに描写できたにしても、東京のふやけた言葉には
所詮なじまない。死はつまり、二カ所の端末間で接続不能の何かだった。
 通信機器は夏場のアメーバのように元気に増殖しているのに、言葉は瀕死ではないか。愛にせよ、
怒りにせよ、意志の伝達がじつはいま、ことのほか難しい。
 孤独な風景は、機器で結んでも孤独なのだ。いや、機器でつなぎとめようとするから、かえって孤独
なのだ。

 冒頭の電車の風景は病んでいるのだろうか、と自問するとき、荷風が五十七年前に記した車中風
景が胸に浮かぶ。『断腸亭日乗』の十二月八日の項は「日米開戦の号外出づ」と書かれ「・・・・省線
はいかにや。余が乗りたる電車乗客雑沓せるが中に黄いろい声を張上げて演説をなすものあり」と
結ばれている。中野重治の短編「おどる男」のことも思い出す。こちらは、敗戦後の満員電車で人に
潰されまいとぴょんぴょん飛び上がる短?の男とこれをなじる女の話で、昭和二十四年の作品。東
京の車中の人とは、戦争も平時も、うら哀しく、滑稽ではあったのだ。というより、痛々しかった。

 携帯電話のある風景を私は好かない。やかましく、何だか人も言葉もひしゃげている。しかし、これ
は私たち「大衆」(私の用語でないけれど)の像の、いつとても変わらぬ痛々しさというものではないか
という気もする。病んでいるといえば、いつも病んでいるのであり、機器に言葉が蚕食されて、たたず
まいが昨今ますます寒々しくなっているだけだ。
 本当は、警察の盗聴捜査合法化の動きについて書こうとしたのに、盗聴される側の貧相に気をとら
れ脱線した。ともあれ、この上盗聴とは、ちとつらい。風景はもうボロボロだぞ。 
………………………………………………………………………………

参考:ツイッター現象の「孤独」について(「草の根通信」の志を継いで 2010年6月13日)
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi/4769062.html

東本高志@大分
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
http://blogs.yahoo.co.jp/higashimototakashi



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