[CML 004985] 林田力「空気が読めない(KY)の真意」

Hayariki hedomura2 at hotmail.co.jp
2010年 7月 18日 (日) 22:01:46 JST


【PJニュース 2010年7月18日】「空気が読めない(KY)」について考察する。「空気が読めない(KY)」は2007年のユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされた言葉の一つである。「9月に辞任した安倍首相に関して頻用され、一般に広まった」と説明される。
相次ぐ閣僚の失言・不祥事をかばい続けた安倍晋三首相(当時)への国民の怒りを形容する言葉として使われた。その後を継いだ福田康夫首相(当時)も年金記録の名寄せが2008年3月までに終わらないことに対し、「公約違反というほど大げさなものなのかどうか」と発言し、KYの烙印を押された。
http://news.livedoor.com/article/detail/4892596/
http://www.pjnews.net/news/794/20100717_5
KYは2007年に突発的に発生した事件・事象を示す一過性のある流行語を越えて、特定の状態を説明する言葉として日本語の語彙の中に定着しつつある。一方で普及すれば反動もあり、KYに対して批判的な見解も現れた。

単に多数意見に反対する人がKYとラベリングされてしまうのではないか、「空気を読め」が反対意見を封じるために使われるのではないか、という懸念である。個性を抑圧する集団主義的性質を持つといわれる日本社会においてKYを流行らせることはマイナスの影響を及ぼすのではないか、との考えである。

たとえば雪印や不二家、赤福などの企業不祥事を考えてみる。また、軍国主義へ突き進む戦前の日本を思い出してもいい。大勢の人が問題を認識していた筈である。それにもかかわらず、問題が拡大してしまったのは、皆が「空気を読んだ」結果ではないだろうか。

「空気が読めない」については、どこの空気を読むかがポイントになる。たとえば不二家という会社の空気しか読まなければ、偽装に異を唱えないことになってしまう。しかし社会の空気は不二家の空気と異なっており、それに気付かなかったことが不二家の失墜を招いた。社会の価値観とは異なる自社の独善的な論理を押し通す人は、「社内の空気を読める人」であっても、一般人から見れば「社会の空気を読めない人」になる。社会の空気を読める従業員が大勢いれば、自浄作用が働いたのではないか。

国民が戦争を望んだとしても、その「空気」を読んで従うべきとはならない。アジアへの侵略が欧米列強の植民地支配からの解放戦争と国民が本気で信じて支持したとしても、国際世論から見れば非難されるべき侵略に過ぎない。国内が戦争支持一色だったならば、世界の空気を読むことが重要になる。
http://www.janjanblog.com/archives/9523
冒頭の安倍・福田首相に対するKY批判も、閣僚の失言や不祥事・公約違反を重要なものではないとするとする感覚が社会の空気には合致していない点を指している。ここで安倍・福田首相に対して、単に間違っていると批判できれば難しくはない。

ところが、彼らの属する永田町の論理では「失言や不祥事・公約違反は大きな問題ではない」と思っている。彼らの世界では、それが正しいのも事実であり、そのように本気で思っている人に対して、「間違っている」と批判しても通じない。

だからと言って国民の価値観として、それを受け入れる訳にはいかない。「永田町の世界では、そうかもしれないが、それは国民には通用しない」ということを主張しなければならない。そこで「空気が読めない」という批判になる。

即ちKYは「もっと広い世界の価値観を知れ」という意味になる。この点で「空気を読む」は特殊日本的な集団主義を強化するための道具ではない。反対に全体最適を破壊してでも自分の所属する集団の利益を優先する傾向にある近視眼的な特殊日本的集団主義の対極に位置する。

それがKYの健全な使われ方であり、そのような形で使用されている限り、日本社会にプラスの影響を与え続ける。KYな政治家を首相にしたことは日本国民にとって大きな不幸であった。しかし、KYが日本語の語彙となったことは特殊日本的な集団主義を克服する上で歓迎すべきことである。【了】



CML メーリングリストの案内