[CML 003110] バングラデシュ・チッタゴン丘陵地帯で争乱が再発
Murata Yoshihiko
murata at shourakuji.com
2010年 2月 24日 (水) 17:24:45 JST
村田です。バングラデシュのチッタゴン丘陵地帯において、先週の金曜日(2月19日)の夜からベンガル人入植者と陸軍による先住民族に対する大規模な攻撃が続いています。
同地帯北部のランガマティ県バガイチャリ郡において発生した入植者によるジュマ住民に対する放火・襲撃は昨日、カグラチャリ県カグラチャリ市内にまで波及し、これまで8人〜10人の先住民族が軍による発砲で殺害され、200家屋以上が全焼し、他に教会や仏教寺院、UNDPの施設等も破壊・放火されてたことが分かっていますが、被害の詳細については現地に非常事態が宣言され、行政官なども立ち入ることが困難であり、住民も遺体を回収できないために未だ不明です。多くの村が焼き討ちされ、多くの住民が逃げ惑っています。
また、今朝方は入った情報に依ればカグラチャリ県のパンチャリ郡でもベンガル入植者の暴動が起き、ジュマ民族の家が放火され、人々は着の身着のままで逃げまどい、森の中に逃げたりして眠ることも出来ない状況にあるといいます。
新聞を含め、殆どの情報は一致して陸軍がベンガル人入植者を煽って放火させているとの疑いを伝えています。
チッタゴン丘陵地帯の中心都市であるランガマティでは先住民族側と入植者側が互いを非難し、双方が連日大規模なデモと集会を開いています。カグラチャリ市での襲撃・放火は日中の抗議行動の最中に起きていることや、入植者の集会を組織している団体が同じであることを考えると、あるいはランガマティでも大規模な衝突が起きるのではないかと懸念されます。
以下はチッタゴン丘陵問題の概略です。
<チッタゴン丘陵問題概略>
チッタゴン丘陵地帯はバングラデシュ南東部、東をビルマとインド・ミゾラム州、北をインド・トリプラ州に国境を接し、カグラチャリ県、ランガマティ県、バンダルバン県の3県からなり、人口は約150万人。イギリス植民地時代に平野部からの移住・入植が禁じられ、その後も当時の条例が生きていたことから、1972年のバングラデシュ独立時の丘陵人口の95%が先住民族であった。
1960年頃にアメリカの援助で作られたカプタイ水力発電ダムの建設により、耕作地の4割が湖底に沈み、約10万人が難民化した。その内、4万人がインドに流れ、内2万人は当時中国との国境紛争を抱えていた辺境州、現在のアルナチャル・プラデッシュ州に送られた。現在もその人々は市民権を与えられず、深刻な人権状況にある。
1972年にバングラデシュが独立すると、政府はCHTへの平野部の土地無し農民40万人を送る計画を発表。同時に、先住民族のイスラム化を表明。
1979年より入植計画がアジア開発銀行の援助で実施される。CHT住民は抵抗軍シャンティ・バヒニを組織し、武装闘争に入る。80年代の軍事政権時代、バングラデシュ政府は同地に10万人以上の軍、国境警備隊等の治安部隊を駐留し、先住民族の行動を常に監視し、移動を制限し、すべてを軍が支配する極端な軍事化を進めた。特にシャンティ・バヒニの基盤であったカグラチャリ県では軍と入植者による焼き討ちや虐殺事件が頻発した。現在、放火事件が起きている場所もそうした地域の一部である。
住民が安心して暮らせないために、多くの人々が隣のトリプラ州に逃げたり、CHTの中で難民化した。トリプラ州に設置された6カ所のジュマ難民キャンプには最大時で7万人を超える難民が避難していた。
1991年にエルシャド軍事政権が崩壊し、民族主義党のカレダ・ジアが首相となるが、1992年4月、カグラチャリ県ロガン村で少なくとも150人(アムネスティ会員が遺体の数を数えた)が殺害される最大規模の虐殺事件が発生。1993年11月ランガマティ県のナニアチョールで少なくとも13人(実際は約70人)が殺害される虐殺事件が発生。
1996年の総選挙でジア政権が敗退し、CHT和平を訴えたシェイク・ハシナ政権が誕生したことにより、ようやく内戦に終止符が打たれ、1997年12月、和平協定が締結された。しかし、ジュマ民族内部の対立もあり、シャンティ・バヒニの武装解除と難民の帰還、チッタゴン丘陵地帯委員会の設置などを実現した他、協定の実行は進まなかった。特に軍は協定に反し撤退するどころか一部では増強され、また、バンダルバン県ではその後、大規模な演習地がいくつも作られるなど和平と逆行した。
前回選挙から5年後の選挙でジア政権が復活すると、和平協定は破棄こそされなかったが、何の進展もしなくなった。この間、入植者による襲撃、放火事件は何度かあったが、今回のように広範囲かつ深刻な事件は軍事政権崩壊後なかった。ロガン事件、ナニアチョール事件は極めて残虐な虐殺事件であったが、空間的に非常に狭い範囲で起きたことである。両現場に調査で訪問したことがあるが、その狭い土地の中で何十人、何逆人という人間が殺害されたことに衝撃を受けた。
過去10年間のジュマ民族の悲劇は何と言っても「兄弟殺し」と呼ばれる民族内での政治的争いによる誘拐と殺害の頻発である。和平協定を結んだシャンティ・バヒニの政治組織PCJSSのかつてのフロント組織の若い指導者たちが1998年UPDF(United People’s
Democratic Front)を結成し、PCJSSと軍事的に対立する道を選んだ。UPDFはPCJSSのメンバーなどを盛んに誘拐し身代金を要求。これに対抗してJSS側でも相手を誘拐するということが頻繁に起き、これまで両者合せ400〜500人以上の活動家が殺害され、誘拐事件については数え切れない程起きている。
UPDFは軍の支援を半ば公然と受けていた。つまり、軍はUPDFを使って治安を不安定化させジュマ民族運動を弱体化させる戦略を実行に移していた、といえる。
一方、昨年総選挙で圧倒的な勝利を収め政権に返り咲いたシェイク・ハシナ政権は和平協定の実行を掲げ、軍事キャンプの撤退などを実行に移していた。バングラデシュにおいて軍はスーパーパワーで、いつでもクーデターで政権を倒せる立場にある。CHTでの和平協定の実施、しかも軍の利権に絡むような撤退政策はもとより軍の意志とかけ離れている。
私は和平協定の実施を阻止する目的で軍が今回の事態を引き起こしたと見ている。
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