[CML 003067] レーニンの民族政策ならび「領域的自治」と「文化的自治」について

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2010年 2月 21日 (日) 01:05:40 JST


紅林進です。
  長文のメール失礼します。
  ご関心のある方が読んでいただければありがたいです。
   
   
   冷戦・ソ連崩壊後、東欧、旧ソ連地域で民族紛争が激発した。その悲劇的典型が旧ユーゴスラビアの民族紛争である。民族自決や民族自治はいかにあるべきか、再考する必要がある。
   
 
  レーニンは、帝国主義戦争、植民地戦争に反対し、民族自決権を高く掲げ、また抑圧民族と被抑圧民族を区別(1915年「革命的プロレタリアートと民族自決権」)し、帝国主義諸国による植民地独立を支持した。そしてそれまでのロシア帝国のような単一国家ではなく、「ソビエト社会主義共和国連邦」という、離脱の自由
(ただし後述するように実際には虚構であったが)を認める各構成共和国により構成される社会主義共和国の連邦という形をとった。
   
 
  この諸社会主義共和国による連邦制という考え方は、中華人民共和国とは明らかに違う形態である。中国には少数民族の「自治州」はあるが、それは連邦を構成する、離脱の自由を認められた、対等な単位ではない。(中国でも抗日闘争や国民党軍との革命戦争時の建国前の時代には、連邦制にしようという案もあったらしい。
中国の国旗「五星紅旗」とは「五民族」を象徴すると聞いたこともある。毛沢東も一時期、台湾独立を唱えた時期もあったと聞く。)
   
 
  レーニンはロシア民族が旧ロシア帝国で抑圧民族であったことを自覚しており、旧ロシア帝国内の被抑圧民族に、自決権を与えようとしたのである。(しかし社会主義革命を守り、諸外国の干渉を排し、内戦に勝利するために、実際の行動においては、その原則を貫けなかった場合や、レーニン自身も支配民族としての意識から
完全に抜けきれなかった面もある。)
   
 
  ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の民族人民委員であったスターリンは、自身がグルジア人であるにもかかわらず、大ロシア主義的態度、政策を採り、当時のグルジアがボルシェビキと対立するメンシェビキの支配下にあったこともあり、同じグルジア人のオルジョニキーゼを司令官として、赤軍を派遣して、グルジア内で
蜂起したボルシェビキを支援するとの名目で、グルジア内に侵攻しメンシェビキのグルジア政府を潰した。(このロシア赤軍のグルジアの首都チフリス(現トリビシ)占領の日、1921年2月25日は、ペレストロイカ期になって、屈辱の「グルジア併合」の日とされた。)
   
 
  スターリンやオルジョニキーゼはグルジアなどザカフカス諸国(「ザカフカス」とはカフカス山脈の(ロシアからみて)「向こう側」の地域という意味で、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアからなる南カフカス地域を指す)の独立性を弱めて、大ロシア主義的な統合を図ろうとしたが、レーニンの慎重な姿勢もあって、
ザカフカス3カ国を統合する「ザカフカス・ソビエト連邦社会主義共和国」という形になった。この統合には、グルジア現地では、反発も強かったが、1936年になって、ザカフカス・ソビエト連邦社会主義共和国は廃止され、グルジア、アゼルバイジャン、アルメニアの各ソビエト社会主義共和国に分割された。
   
 
  レーニンは、各ソヴィエト共和国が自治共和国としてロシア連邦共和国に加入する、というスターリンの「自治共和国化」案を大ロシア主義的として批判し、ロシア連邦共和国は他の共和国と対等な資格で共にソビエト社会主義共和国連邦を結成すべきであると主張した。そして1922年12月30日に、ロシア、ウクライナ
、ベラルーシの各社会主義共和国を構成共和国とするソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立した。
   
 
  レーニンはスターリンのこのグルジア問題に対する対応を見て、スターリンに不信を抱くようになり、病床(1918年8月30日に銃撃・重傷を負った暗殺未遂事件の後遺症といわれる)の中で、スターリンの大ロシア主義的な少数民族政策などを批判し(『少数民族の問題または「自治共和国」の問題に寄せて』1922年
12月30日〜31日)、スターリンの排除(書記長罷免提案)を訴える手紙(「大会への手紙」1923年1月4日付)など、後に「レーニンの遺書」とも呼ばれる、一連の覚書を口述筆記させるが、それらはスターリンによって握りつぶされ、公表されることはなかった。
   
   
  レーニンは、12月31日に口述筆記された覚え書き『少数民族の問題または「自治共和国」の問題に寄せて」の中で、「抑圧民族、すなわち、いわゆる『強大』民族にとっての国際主義とは、諸民族の形式的平等をまもるだけでなく、生活のうちに現実に生じている不平等にたいする抑圧民族、大民族のつぐないとなるような、不
平等をしのぶことでなければならない」と述べた。
   
   その後レーニンの病状は悪化し、1923年3月10日には、会話能力も完全に失い、そして1924年1月21日に4度目の発作を起こし、死去した。享年53歳、若過ぎる死である。レーニンがもう少し長く健在であれば、スターリンの独裁を阻止できたかもしれないことを考えると誠に残念である。
   
 
  しかしレーニン自身にも、いろいろ問題があったことも事実である。ここでは民族問題に限って取り上げるが、レーニンは、諸民族の平等と民族自決権を支持し、大ロシア主義を諌め、抑圧民族と被抑圧民族を区別し、抑圧民族としての責任を説き、「エンゲルスのカウツキーへの手紙」(1882年9月12日付)から「勝利
したプロレタリアートがどんな種類の幸福であれ、他民族に押しつけるなら、必ず自分自身の勝利を覆すことになる」というエンゲルスの文を引用し、その重要性を強調している(『自決に関する討論の決算』1916年)が、その原則にレーニン自身必ずしも忠実ではなかった。しかしそれ以前に、ソ連邦の非常に大きな原理的な
問題がある。
   
 
  そして最も大きな問題は、ソ連では、共産党組織が絶対的権力を持っていて、各構成共和国の共産党組織は、ソ連邦共産党(初期はロシア共産党)の下部組織でしかなく、自決権はないということである。構成共和国は連邦から分離・独立の権限を保障されているとされたが、各国政府は、中央集権的なソ連邦共産党に一元管理
されており、「分離・独立の自由」は絵に描いた餅であった。そしてソ連邦共産党のこの一元支配が機能しなくなったとき、ソ連邦は解体したのである。
   
   次にもう少し、個々のレーニンの民族政策の具体的な問題に触れよう。
   
 
  1920年のロシア赤軍によるポーランド・ワルシャワ進攻作戦などは、レーニンの言行不一致の最たるものであろう。確かに、ウクライナに進攻したポーランド軍を追ってのポーランド進攻ではあったが、またポーランドからドイツへと革命を波及させ、世界革命を達成しようという意図があったかもしれないが、このレーニ
ンのロシア赤軍を用いてのポーランド進攻には、トロツキーだけでなく、スターリンさえも、そしてボリシェビキ政治局員の多数派も、「ロシア人が赤軍服を着ていようと、それは再び民族的圧迫のための戦争としか受け取られない」と反対したとのことである。たとえばかつて植民地支配した日本の軍隊が「革命軍」や「解放軍」
と名乗ろうとも、韓国・朝鮮の人々を解放すると称して軍事侵攻した事態を考えてみれば、その重大さが分かる。これこそまさにレーニンが否定したはずの、他民族への「幸福」の押し付けでなくてなんであろう。
   
 
  スルタンガリエフなどのムスリム諸民族の共産主義者に対する対応も、レーニンはその意義を理解できず、弾圧した限界が、白井朗氏の『二〇世紀の民族と革命:世界革命の挫折とレーニンの民族理論』(1999年、社会評論社)、『マルクス主義と民族理論:社会主義の挫折と再生』』(2009年、社会評論社)の2著、とり
わけ前著に詳述されている。
   
 
  またユダヤ人ブント(リトアニア・ポーランド・ロシア・ユダヤ人労働者総同盟)に対する、批判、弾圧にも、レーニンの民族理論の問題性が表れている。レーニンは、ボルシェビキの中央集権的・一元的組織原理、単一党原則、一党独裁を脅かすものとして、ユダヤ人ブントを排斥したようであるが、同時にレーニンのユダヤ
人問題に対する無理解も示している。ユダヤ人ブントはシオニズムを批判して、ユダヤ人の政治的自由と文化的自治を要求していたのである。
   
   この「文化的自治」とは、オーストロ(オーストリア)・マルクス主義のオットー・バウアーやカール・レンナーが強調したものであるが、レーニンが主張し、ソ連である程度実現した「領域的自治」とは異なり、今日、その意義はもっと強調されてよい。
   
 
  オットー・バウアーは、1881年オーストリア(当時ハプスブルク帝国)の首都のヴィーンに裕福なユダヤ人繊維工場主の息子として生まれ、第一大戦に士官として従軍して、ロシア軍の捕虜となり、1917年のロシア2月革命革命後に釈放されて、オーストリアに帰国し、オーストリア社会民主党の左派の指導者となり、第一次大戦
終戦後は、オーストリアの外相も務めた。『民族問題と社会民主主義』(1907年)、『ボリシェヴィズムか社会民主主義か?』(1920年)、『オーストリア革命』(1923年)、『社会民主主義、宗教、教会』(1927年)、『二つの世界大戦のはざまで』(1937年)などの著作を次々と発表し、オーストリア社会民主党の理論的指導者とな
った。
   
   一方カール・レンナーは、1870年に、当時オーストリア・ハンガリー二重帝国領であった南部メーレン(現在のチェコ領)ウンター・タノヴィッツ(現在のドルニー・ドゥナヨフツェ
 )の小さなブドウ農家の18番目の子供として生まれた。農業危機のために家が破産してますます苦しい生活を送るようになったが、ウィーン大学に進学し、法律を学ぶ傍ら、オーストリア社会民主党で社会主義運動に関わった。第一次世界大戦終了直後のオーストリア共和国の初代首相と第二次世界大戦終了直後のオーストリア共
和国の臨時首相・初代大統領を務めたことから「祖国の父」とも呼ばれる。かつて「ドナウ連邦」の構想なども提唱したが、実現しなかった。
   
 
  民族自決権を擁護し、それが可能な地域では、民族独立や領域的自治を実現することは必要かつ重要であるが、民族が混在、混住している地域では、領域的自治を貫こうとすると、領域内の他民族を排除する民族浄化になりかねない。それが最も悲劇的な形で現実となったのが、旧ユーゴスラビアの民族紛争であり、取り分けそ
の中でもボスニア・ヘルツェゴビナのそれである。オットー・バウアーなどのオーストロ・マルクス主義者の活動したオーストリア・ハンガリ二重帝国は、多数の少数民族を抱え、しかもそれら民族が混住している地域も多かった。旧ユーゴスラビアのクロアチアはオーストリア・ハンガリ二重帝国領であった。(ボスニア・ヘルツ
ェゴビナやセルビアはオスマン帝国領だった)
   
 
  オットー・バウアーは、そのような現実を踏まえて、『民族問題と社会民主主義』(1907年)の中で、「文化的自治」を主張した。「民族独立」や「領域的自治」がその領域内の「政治的自決」や「政治的自治」を主張するのに対し、「民族文化」や「言語教育」などの民族固有の文化を居住地域に関係なく(実際には居住
地域に無関係でない場合もあろうが)保証するものである。オットー・バウアーが提唱した「文化的民族的自治」は、個人の自主申告に基づいて民族台帳を作成し、地域に基づかない民族毎の公法団体に民族の文化・行政を任せるべきと主張した。
   
   もっとも第一次大戦での敗戦を前にして、革命が起こり、ハプスブルク帝国は解体し、帝国内の主要各民族が独立したため、オーストリアは、ドイツ民族主体の共和国となったため、オットー・バウアーらが提唱した「文化的自治」が実現したわけではない。
   
 
  しかしこの考え方は、「多文化共生」や「文化多元主義」にも通じる考え方であり、今日その重要性は再評価されるべきである。実際、EUが統合される中で、ヨーロッパ大陸における国境の壁は低くなり、これまで国民国家に統合されることを拒否して、独立を主張してきた地域や民族も、独立よりは自治を選択するようになっ
てきている。北アイルランドやバスク、スコットランド、ウェールズ、コルシカ島、さらにヨーロッパではないがカナダのケベック州などである。ケベック州では英仏二カ国語表記など、文化的多元主義が採用されている。
   
 
  レーニン、そしてスターリンはユダヤ人ブントの指導者ヴラジミール・メデムと並べて、オットー・バウアーやカール・レンナーらを批判・非難したが、オットー・バウアーは自身がユダヤ人であるにも関わらず、ユダヤ人に関しては、同化を唱えた。確かに西欧では、独自の言語を失い、文化的言語的に居住地域の民族に同化
しているユダヤ人が多いが、しかし東欧やロシアにおいては、イディッシュ語というドイツ語を母体にするけれども、ヘブライ語やユダヤ系の人々が使う語彙を取り入れたその地域のユダヤ人が日常使う独特の言語を共通にしている文化的共通性を維持しているのであり、この「同化」の主張は自らの唱えた「文化的自治」の考え方
と矛盾している。
   
   
   なお本日21日(日)に社会主義理論学会第54回研究会があり、その報告の   一つとして、ロシア革命史の研究家の上島武さん(大阪経済大学名誉教授)が
  「レーニン晩年の民族理論」について報告されますので、よろしかったらお越し
  ください。(社会主義理論学会会員でなくても参加できます)
   
      社会主義理論学会第54回研究会
  報告
  瀬戸宏(摂南大学教授)兪良早『マルクス主義東方社会理論研究』を読む
  文献:兪良早《馬克思主義東方社会理論研究》(中共中央党校出版社 2006)
  上島武(大阪経済大学名誉教授)レーニン晩年の民族理論
  参考文献:上島武『ロシア革命史論』(窓社 2003)
  日時:2010年2月21日(日)午後2時〜5時
  会場:全水道会館4階小会議室
  *ロゴスの会で借りています。会場費500円(会員・非会員問わず)
   これまでと会場が異なっていますのでご注意ください。
  交通案内 JR水道橋駅東口下車徒歩2分
  東京都文京区本郷1−4−1 (03)3816−4196
  地図http://www.zensuido.or.jp/kaikan/kaikan.htm
  会場費500円(会員・非会員問わず)
  主催:社会主義理論学会 
  http://wwwsoc.nii.ac.jp/sost/index.html


   

   

 

 
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