[CML 005345] 花崎皋平は民衆思想家である

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2010年 8月 20日 (金) 17:50:48 JST


前田 朗@八王子、です。
8月20日

東本さん

ご意見ありがとうございます。

1.前口上

残念ながら、東本さんが書いていることは最初から最後まですべて誤りですが、
一つひとつについてコメントはしません。なぜなら、東本さんが主要な論点につ
いて沈黙しているからです。

私は、「グ24」で、第1(朝鮮植民地化戦争認識)、第2(アシア太平洋侵略
認識)、さらに「グ26」
で追加論点(「戦争万歳という戦争反対論者」)を提示しています。これについ
て、東本さんは言及していません。そして、あまりの閑にまかせて、ブッダがど
うのこうのと道草に励んでいます。東本さんは「2、3の違和について」だけ言
及しているので、上記の主要な論点についての言及を待つべきところです。

また、女性に関しても、私は第4(正造の「妾問題」)、「グ26」で追加論点
(家事労働なき民衆思想)を提示しています。ところが、東本さんは、第3(女
性民衆思想家)だけを切り離して論じています。私はこれらの論点が密接につな
がって花崎さんの思想の欠陥を示していると考えていますので、東本さんが全体
について論じるのを待つべきところです。

しかし、東本さんのメールからは、東本さんが花崎さんの思想をおよそ理解して
いないことがはっきりしていますので、その点に絞って、以下、私の意見を明示
しておきます。

2.花崎皋平は民衆思想家である

花崎さんの『田中正造と民衆思想の継承』(七つ森書館、2010年)[以下、本書]
を素材に(必要に応じては、それ以前の花崎さんの著作をも加えて)、花崎さん
の民衆思想をどのように評価するのか。それが最大のテーマです。

最大のテーマのアルファ&オメガ、出発点にして結論は、「花崎さんは民衆思想
家である。その思想をどのように評価するか」です。

まず手順として次の点から始めます。東本さんは、次のように書いて混乱を露呈
しています。

> 
> しかし、私が同著を読んだ限り、花崎さんは自身の北大助教授辞職経験を「本
書の冒頭と最後に
> (略)繰り返し取り上げ」ていることは事実ですが、それは自身の論の主題の
展開に相応したもので、
> かつ必要最小限の言及にすぎません。それを「繰り返し」「(著者は40年間、
)何度も何度も」という
> レトリックを用いて「旧帝国大学助教授として権力の側でも立派にやっていけ
た私が、あえて助教授
> を辞職してまで、民衆思想を論じ、発展させてきた」というように解釈し、花
崎さんがあたかも「自らの
> 民衆思想の正当化」のために「不必要」に同辞職経験を言挙げしているかのよ
うにいうのは、それこ
> そ人を「不必要」に貶める行為というべきであり、不当なことだと私は思いま
す。
> 


東本さんの文章は論理的に成立していません。私が、「(著者は40年間、)何
度も何度も」としているのに対して、東本さんは「本書」に限定して2度しかな
いことをタテに「何度も何度も」というのは「レトリック」だとか、花崎さんを
「貶める行為」などと非難しています。ほかの著作を読めば、花崎さんが40年
間にわたって、「何度も何度も」どころか、何十度も強調してきたことはすぐに
わかります。周知の事実です。このことを隠蔽して、ひたすら他人を非難するの
が東本さんの流儀です。

これは手始めの小さな論点ですが、東本さんの議論の特徴を示すために言及しま
した。その特徴は、書物(文章)をきちんと読まないこと、その時その時に都合
のいい言葉に飛びついて議論を進めること、です。

さて、本題に入ります。


> 
> 前田さんは次のように言います。「(同著第三部の)『継承』では、民衆思想
家と呼ぶべき前田俊彦、
> 安里清信、貝澤正をとりあげ、自らの人生を織り込んでいます。つまり、田中、
前田、安里、貝澤、
> 花崎とつづく民衆思想家の流れを唱え、その観点から田中正造に学ぶべきこと
を再発掘する試み
> です」(同上)。
> しかし、花崎さんの民衆思想家及び民衆思想の定義は次のようなものです。
> 「民衆思想家は実践を通じての問題解決を優先し、社会的政治的文化的活動の
通信物やパンフ
> レットに、そのつどの必要に応じて文章を書いたり語ったりしても、本を書い
て自分の思想を述べ
> ることに主眼を置いていない」(『田中正造と民衆思想の継承』「第9章 瓢
鰻亭 前田俊彦」p167)
> 「民衆思想とは、民衆の一員であることに徹し、地域に根ざした実践と経験に
基づいて練り上げら
> れた自前の思想を指す。それは必ずしも文字で書かれたり、著書となってひろ
められたりするもの
> ではない」(同「第13章 田中正造の思想的可能性」p236)
> 花崎さんはいうまでもなく「本を書いて自分の思想を述べることに主眼を置」
いている作家、思想家
> です。花崎さんの上記の定義に従えば、花崎さんが自らを民衆思想家の位置に
布置させることは
> ありえません。
> 

ここでは、
1)花崎さんが「民衆思想家」であるか否か、
2)ご本人が「民衆思想家」と自らを位置づけているか、
この2つの論点が、切り離しがたく密接不可分に重なり合っています。それが
「民衆思想とは何か」にも絡まりあった問題であることもいうまでもありません。

私の主張は次のとおりです。
1)花崎さんは民衆思想家である。
2)花崎さんは自らを民衆思想家と位置づけている。

東本さんの主張は次のとおりです。
1)花崎さんは民衆思想家ではない。[明言していませんが、論理的にこうなる
はずです]
2)花崎さんが自らを民衆思想家と位置づけることはありえない。

東本さんの主張は、根本的に間違っています。とんでもない間違いです。絶対に
ありえない誤読です。

a)本書は、花崎さんが民衆思想の思想継承をはかった「基本書」であり、結論
です。40年にわたるご本人の民衆思想家としての歩みの「総決算」です。タイ
トルだけでも、目次だけ見ても、それがわかります。それを否定するなど、およ
そ考えられないことです。

b)本書タイトルの「継承」には少なくとも4つの意味があります。
第1に、正造の民衆思想の「継承」。
第2に、前田俊彦、貝澤、安里による「継承」。
第3に、以上の民衆思想を花崎さんが発掘し、「継承」し、発展させる。
第4に、読者にこの民衆思想の「継承」、発展を呼びかける。
これが読み取れないようでは、書物を読んだとはいえません。

c)本書で、花崎さんは、次のように述べています。

「私は実践の現場に密着したところで思索し、自分自身の問題として田中正造の
思想的可能性を問うことにつとめてきた。/私が田中正造からまなんだ民衆思想
の特徴をまとめると、以下の三つのことがあげられる。(以下略)」(237頁)

花崎さんは、単なる「民衆思想研究者・民衆思想史研究者」ではありません。民
衆思想研究者・民衆思想史研究者であると同時に自らも民衆思想家として40年
にわたって研鑽・実践・努力してきたのです。

d)本書「あとがき」で、花崎さんは、次のように述べています。

「私自身、40歳から転進して在野の実践者、思想家であろうとしてきた。その
過程で、絵画の制作でのように、かなり厚い下塗りを画布に塗り重ねてきたよう
に感じている。あるいは屏風の表は田中正造の思想であるが、裏には私の後半生
の書き反古が貼り込んであるといってもよい。」(249頁)

表と裏です。花崎さんは、ここまで言っているのですよ。それがわからないなん
て、お話になりません。

e)以上a〜dは本書だけでも明らかになることです。それ以前に、花崎さんは、
文字通り『ピープルの思想を紡ぐ』(七つ森書館、2006)という著作を出し
ています。自らの思索を「ピープルの思想を紡ぐ」ものだと宣言しているのです。
これが民衆思想家でなくて、いったい何なのですか。インタヴューによる『風の
吹き分ける道を歩いて−−現代社会運動私史』(同、2009)においても、
「ピープル」そして「ピープルネス」という表現で自らの思想を特徴付けていま
す。

繰り返します。
1)花崎さんは民衆思想家である。
2)花崎さんは自らを民衆思想家と位置づけている。

これが正しい、まともな、当たり前の判断です。これに反する、東本さんの捻じ
曲がった解釈は、とうてい許されるものではありません。

東本さんは、花崎さんのアイデンティティを否定しています。40年にもわたっ
て民衆思想を追求してきた花崎さんの人生を貶めているのです。他人の人生を否
定しているのです。これではおよそ議論になりません。

なぜこのような無残なことになってしまうのか。いろんな理由があるかもしれま
せんが、すでに明らかになっている大きな理由は、東本さんには「書物を読む」
ということの意味がまったくわかっていないことです。

なるほど東本さんは、本書を「読んだ」のでしょう。しかし、東本さんは、本書
のページを物理的にめくっただけです。そして、私に反論するというただそれだ
けのために、どこか引用に都合のいい箇所はないかと探しただけです。

だから、東本さんは、本書で著者が言おうとしたこと、著者が40年の歳月をか
けて取り組み、本書全体を通じて訴えていること、「私が継承してきた民衆思想
を、ぜひとも継承・発展させてほしい」という万感の意を込めた訴えを把握する
ことができないのです。

東本さんは、上記引用で「民衆思想家の定義」と称しています。そもそも、これ
は「定義」でも何でもありません。それはともかくとして、東本さんは、その
「定義」の内容すら理解できていません。東本さんは、次のような珍奇な主張を
します。

<花崎さんはいうまでもなく「本を書いて自分の思想を述べることに主眼を置」
いている作家、思想家
です。花崎さんの上記の定義に従えば、花崎さんが自らを民衆思想家の位置に布
置させることはありえません。>

デタラメです。「民衆思想家は本を出さない(主眼を置かない)。花崎さんは本
を出す(ことに主眼を置いている)、だから花崎さんは民衆思想家ではない(位
置づけていない)」という、まったく頓珍漢な莫迦げた発言です。

民衆思想家であるか否かは、そんなことで決まるのではありません。花崎さんは、
民衆思想家について「本を出すかどうか」などを基準にしていません。前田俊彦、
石牟礼道子、森崎和江、田中美津をごらんなさい。上記の引用で花崎さんが言っ
ているのは、東本さんの誤読とは違って、「本を出しているか否かは関係ない。
本を出していなくても、学ぶべき重要な民衆思想家はいるのだ」、正造、貝澤、
安里、新井のように、ということです。こんなことも読み取れないのは、完全に
失格です。

他人を批判するために、どこか都合のいい箇所はないかと目を皿のようにして探
すのはもうやめましょう。せっかく花崎さんの本を読むのなら、「民衆思想家の
花崎さんはどこまでたどり着いたのか、何を私たちに残してくれたのか」をきち
んと読み取りましょう。議論はその後です。

いくら浅薄で思慮が足りないといっても花崎さんは立派な民衆思想家であり、4
0年間にもわたって日本を代表する民衆思想家としての歴史を刻んできたのです。

このことを理解できず、否定する東本さんには、花崎さんについて、民衆思想に
ついて、議論する資格がありません。

さようなら。








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