[CML 005283] Re: グランサコネ通信24「思想の誤植について」

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2010年 8月 12日 (木) 19:28:22 JST


前田 朗です。
8月12日

東本さん

お知らせありがとうございます。
案外、お閑だったのですね。失礼(笑)。

> 
> そしていま、前田さんの花崎皋平論/批判を読みました。前田さんの花崎批判
には肯えるところが多
> いです。
> 



花崎さんほどの思想家の思想を評価するのであれば、著作の全てを読み解いて、
思想構造の形成と展開の流れも射程に入れて議論しなくてはなりませんが、私は
思想史研究者ではありませんし、花崎論を展開するつもりもありません。手元に
ある1冊の本だけを読んで、疑問を提示しただけです。ただ、その疑問が、花崎
さんの思想そのものへの疑問に繋がっているので、さらに本格的に考える必要が
あるとは思っています。

もう20年以上になるでしょうか。水平社批判など金静美さんの一連の著作に衝
撃を受けたことがあります。また、安川寿之輔さんの丸山真男=福沢諭吉批判も
凄い。

ここでわかることは、日本人の「内輪褒めの思想史研究」の欺瞞性です。日本の
中だけで、日本のことだけを、外に影響しないように密にやっている分にはどう
ぞご自由に、ですが、近代日本の歴史そのものが対外膨張の歴史であり、植民地、
占領地での蛮行の歴史です。その日本近代の受益者である思想家たちが、積極消
極濃淡の差はあれ、侵略と占領の音頭とりをしていたのです。受益者であり扇動
者。この春に読んだ『「戦後」というイデオロギー』という本で、名前は覚えて
いませんが韓国出身の研究者が、「幸徳秋水の非戦は、軍事的侵略に反対をして
いるが、非軍事的手段による朝鮮半島や大陸への進出を唱えていたのだ」という
趣旨のことを書いていて、う〜んとうならされました。経済的侵略です。

花崎さんは、言うまでもなく、これまでの著作で、植民地支配や侵略戦争の歴史
をきちんと批判し、思想的に克服する作業を続けてきた先達です。ところが、正
造以下の「民衆思想」となると途端に「内輪褒めの思想史研究」に転落するので
す。まさに「転落」です。

さて、花崎さんは、正造の思想の中間まとめの部分で、次のように書いています。

「一切の存在に内在してはたらく霊性に真の価値を見いだし、物質上の財や社会
的地位や名誉などの欲を否定して、飾らず作らず、あるがままをたのしむこと、
それが彼の到達した心境であった。彼が感得した真理とは、天地自然においては
美として、人間においては無私、無欲として、社会においては公益と徳義として
発現するものであり、そうした真理は、あるがままの存在の常なる姿のうちにあ
るという洞察であった。」(111頁)

また、「愚と聖の弁証法」では、次のように述べています。

「正造はもとより弁証法などという論理の方法を知っていたわけではない。だが、
彼の思想が弁証法の論理を体現しているのは、彼の思考方法が万事に『徹底する』
という方法であったためである。彼は極端であることが必要であり、極端まで行
かなければ真理、真実には達し得ないと考えていた。愚に徹する、無学に徹すれ
ば、天知すなわち真の知恵に達するというように。その場合の愚とは、自分の頭
を働かせて判断することができない無能な在りようを意味しない。西欧近代の化
学知は、収集した知識や情報を分析し判断し、その結果を技術化する理性の活動
を、知的活動のすべてとするが、これに対して、東洋における愚の思想とは、日
常生活から生ずる経験知、暗黙知、身体知、さらにそれが昇華された叡知をより
上位に置く思想である。」(135頁)

他にもいくつかありますが引用はこれくらいにします。このような考え方が、花
崎さんの「民衆思想」論なのですが、随所で「これが民衆思想だ」と断定してい
るだけで、「なぜ」「民衆」思想であるのか、説明がないのです。私には、これ
らが「民衆思想」であるという意味が理解できません。正造の思想が重要である
というのなら、そうですね、と言えますが、これが民衆思想だと言われても、ど
こが? としか言いようがありません。

(この投稿は手直しして「グランサコネ通信」に繰り入れます)









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