[CML 001494] Re: 上関原発 地元MLから その7

higashimoto takashi taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2009年 9月 28日 (月) 07:32:05 JST


上関原発 地元MLから その8です。

26日、27日の祝島のたたかいの様子が記されています。

高井さんが紹介されているブログ記事(下記参照、長文)、ブログ筆者のご自分自身への問いかけに
違いありませんが、それは私たちひとりひとりの「問い」の問題でもあるように感じられます。

ご一読いただければ幸いです。

高井さんのおっしゃるシーカヤック隊を組んで体を張って阻止活動を続けてくれている若い彼らへの
支援もとても大切な課題であるように思います。

以下、高井さんの訴えをお読みください。


東本高志@大分
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp

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From: 高井公生
Sent: Sunday, September 27, 2009 11:28 PM
Subject: 上関の現状とわたしたちの行動について

 たびたび失礼します。高井です。

 一応仕事のない土曜日、三たび26日に平生町田名埠頭へ行き、今夕我が家へ帰ってきました。
現地は両日とも作業船の動きもなく一応は平穏でしたが、見えない敵を相手に海上、陸上ともに緊迫していました。
中電が、度重なる作業日程の遅れに焦って、今後は「やる」「やらない」という作業日程を公表しない、と公表したために、
こちらは、24時間、土・日の区別なく、(作業船を使った)海上、(大型トラックを使った)陸上、どっちの輸送手段で目標物であるブイ(現在田名埠頭の陸上部の岸壁にある)を狙ってくるかわからなくなり、陸上支援者たちが夜を徹して警戒態勢をとっている、というのが、これまでと違ってきた大きな点です。
ということで、着いた26日の翌日、27日1時から2時30分まで、中電の突破行動を警戒する”夜回り”の仕事をする責任ある栄誉が回ってきました。終わってみれば結局、2つのポイントを往復する1・5時間の間に7キロほどを歩いていました。
趙博さんを水先案内した先着の、某南さんは、”敵がいつ、どこから攻めてくるともわからない”この緊張する深夜の警らを、率先して2夜!レンチャンで務めあげました。

 日中は全国から寄せられた激励メッセージを路上いっぱいにつるす仕事を、支援の皆さんと一緒にすることもできました。
現地での闘いの印象は、とってもあったか(日中はメチャ暑!)、アットホームな楽しさ! そして差し入れの多い、そんな2日間でした。
たまさん、アクセスできる現地情報が少ない中でタイムリーな情報発信をいつも、ありがとう。あなたの思いがこもったTシャツ・メッセージも、現地に架けましたよ。

 現地から大分へ帰った身として、伝えたいことがいっぱいあるのですが、留守のブログを見ていたら、まだ読んでいなかった以下の長文に行き当たりました。そして、勇気づけられました。
 これ以上の文章は書けません。これが言いたいすべてかも…。ここに書かれたことは何度も考えてきたつもりでしたが…。
”夜回り中”に、埠頭で釣りをしている、みるからに50歳代(平生町民)の人に思い切ってに20分間ほど話しかけましたが、「四代の建設予定地にも釣りに出かけたことがある」と言いながら、残念ながら反原発の認識を微塵も感じることはできませんでした。自分のことばでどれほども語りきれなかったのではないかと反省しています。

 最後に、もうひとつ。大切なこと、忘れるところでした。
 祝島の船団は現在のところ後方に退く形をとっていて、作業を阻止するために10数人、12,3艇のシーカヤック隊が体を張ってくれています。若い彼らとて、仕事(生活の糧)が当然であるわけで、日によって人が入れ替わるとはいえ、仕事を放って現地に張り付いている状況は、祝島島民と同じです。そこで、シーカヤッカー達の最低限の生活保証と、彼らの阻止活動を全面支援するために、平生町近隣の支援者が中心となって彼らの3度の食事を担当することになりました(つい最近まで、うかつにも私たちは、彼らが夕食にカップラーメンを食べていることを知りませんでした)。祝島への支援に続いてのお願いにほんとうに恐縮しますが、こうした諸事情をお汲み取りいただき、ぜひともシーカヤッカーへのカンパもお願いできればと思います。
振り込み先は、「祝島島民の会」へ、もしくは前回同様、高井までご連絡いただければ責任をもってお届けします。
(会計が異なりますので「シーカヤック隊支援」と必ず明記してください)

さて、件(くだん)のメッセージです。


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久しぶりに日記を書きます。


連休が明けてはっきりわかりましたが、このブログのアクセス数・閲覧者数は、確実に平日の昼間が多いです。

中国電力、関連業者、山口県庁職員、上関町役場職員、各地の電力関係者による、就業時間中のアクセスによるものでしょう。

田名埠頭にどんな人間が何人くらい集まっているのかなど、現場に行かずして分かるわけですから、便利なのでしょう。

今まで通りの、現地を孤立させ、強引に工事を押し進めてきたやり方が通用しなくなってきた今、
もちろん、阻止行動をしている側の動きや考え方・価値観についても、開いていきたいと思います。

僕は、明確に、これ以上関原発を増やす事に異を唱える者としての立場から、あらゆる情報を発信しています。

と同時に、電力会社が経営的に追い込まれていく事や、現場の社員・下請け業者の立場が悪くなっていくこと、
上関町をはじめとする原子力産業に取り込まれてしまった地域の財政が厳しくなっていくこと、
日本のエネルギー政策が行き詰っていくこと、

それらの事象に関わる個人個人の不幸せを望んでいるわけではありません。

むしろ、それら原子力に関わるすべての当事者の幸せを望みますし、
その幸せを、抽象論ではない、具体的で手ごたえのあるものとして実現していくためにも、
原子力発電所を建て続けていくことが、あらゆる問題解決を先延ばしにする行為であると認識したうえで、
新たな新規立地に対して待ったをかけたいと思っています。


お金で生活は守れないという人達と、生活を守るためにお金(仕事)を守るという人達がいます。

立場が違う人達が、それぞれの世界観の中から出てくる言葉を語り、それぞれの行動をしています。

それは自由でいいと思います。

しかし、どちらかの行為がどちらかの自由を侵害していたり、
どちらかの暮らしや営みへの理解がないままにそれを破壊していたりするならば、
それに対して異を唱えることは、双方が生き残る上でも必要なことです。

多数決で決めてはいけないことがあります。

少数の生命の危機が、多数派の同意によって推し進められるならば、それは暴力以外の何物でもありません。

政府であれ、県であれ、事業者であれ、経団連であれ、電事連であれ、マスコミであれ、

多数の者、大きな力を持つ者はむしろ、
少数の者、力なき者を、守り、助けるべき立場にあるのではないでしょうか。

中国電力の社員は、祝島の方々に向かって
「あなたたちの中には、(阻止行動の現場から)帰りたい人もいるでしょう」
「これからも一次産業、二次産業でやっていけると思いますか」
と、相手への無理解・無敬意丸出しの言葉を投げかけた人もいます。

このような無理解がはっきりしている状況の中で、
そのまま進めていい事と、今のまま進めてはいけない事があると思います。

壊したら元に戻らないもの、殺してしまったら生き返らないものがあるのですから。

中電は、夜に作業をするかもしれないそうです。そうなると、カヤッカーや祝島の漁船は、埠頭で泊まり込んで見張りをする事になるでしょう。

阻止が続けば続くほど、彼らは疲れていくでしょう。
そして、中電は、下請け業者は、焦っていくでしょう。

戦いは、お互いを疲労させ、勝ったものは束の間の喜びを、負けたものは恨みを、抱くでしょう。

戦いは、誰も幸せにはしないでしょう。

誰もが本当は、戦いたくないはずです。

命の危機を感じる海の人達は、体を張って止めるでしょうし、
会社の上層部からプレッシャーをかけられ続けている社員は、なにがなんでも着工するしかないと思うこむほどに、精神的に追い込まれているかもしれません。

戦わざるを得ない者たちを生み出している、この構造を変える道はあるのでしょうか。



昨年の夏、中国電力の社員と話をしました。
「多くの人達が原発による電力の安定供給を求めています。
その皆さんの声にこたえるためにも、この場所に原発を建てることを使命と感じています。」
と言う言葉を聞きました。

僕はどう考えても「多くの人が原発を望んでいる」とは思えません。

多くの人、という人の中には、これくらいはグラデーションがあるでしょう・・・。

電気がどうやって作られているか、何も知らない人
考えた事もない人
えらい人達がやっていることだから、良くわからないけど大丈夫、と思っている人
ちょっとは知っている人
ちょっと知ったけど、自分には関係ないと思っている人
知ったところでどうしようもないと思っている人
原発ってイヤだな、と少し思ったけど、それ以上考えることをやめている人
原発の危険性について聞いたけど、それ以上踏み込むと変わり者と思われそうだからやめている人
漠然と不安だけど、そのままにしている人
周りに話せる人がいないし、そのままにしている人
危ないと思っている人
危ないけど、電気もいるしな〜と迷っている人
自分一人が異を唱えたってどうしようもないと思っている人
すごく勉強をしたけど、途方もない気がしてきたのでやめた人
原発に反対だけど、会社の人間関係があるし言えない人
家族関係が悪くなりそうだから考えないように、言わないようにしている人
原発に反対だけど、そう言ったら喧嘩になったことがあって、言わなくなった人

もっともっと、いろんな人がいるでしょう。

迷っている人、
戸惑っている人、
このままでいいとは思えないけどどうしたらいいか分からない人、
どうやって自分の思いを届けたらいいか分からない人、
分からない事を誰に聞けばいいか分からない人、
話し合いの場がほしい人、

原発がほしいのではなく、暮らしていくためのお金がほしいのだ、という人
電力会社の社員という立場だから表向き賛成している人
本当は自然エネルギーの仕事をしたい人
原発の現場から離れたい人
役場の人間として、自分の役職をまっとうするためには埋め立て許可を出すしかないという人
書類が回ってきたらサインをするしかないという人
バリバリ推進の人
バリバリ反対の人

色々です。

本当に、色々あるのです。

反対派と括られる人達、賛成派といわれる人達の、それぞれの中に、
それぞれの立場の人たち、それぞれの価値観の人たちがいます。

色々思っているけど黙っている人達をざっくりと括って、
「黙っている人=現状を容認している=賛成派」
としてカウントしているのだとしたら、やっぱり、ちょっと待とうよと言いたいです。



多様な意見をくみ取れない社会は、多様な生態系をつぶしていくでしょう。

個人の意見は踏みにじられ、感性は閉ざされ、決まりきったことだけが自動的に進んでいく、
ロボットとオートメーションによる、「便利で快適」という幻想に浸る思考停止の世界が待っているでしょう。


賛成派に迎合するでもなく、反対派に迎合するでもなく、
個性豊かな、多種多様な声が表に出た時に、世界は変わるかもしれません。


私はこう思う、
私はここがわからない、
私はこんな風に戸惑っている、
私はこんな風に迷っている、、、、、

「こんなに多種多様な意見、疑問、戸惑いがあるなら、今すぐに工事を進めることは得策ではない」

となるかもしれません。


また、反対派と言われている人の中には、ただ単に反対しているだけでなく、
生命の危機を感じて「殺さないでくれ!」と言っている人もいます。

祝島の方々がそうですし、
「長島の自然を守る会」の方々に代弁をしてもらっている、希少生物たちの声がそれに当たるでしょう。
突き詰めていけば、みなが生命の危機を感じているのかもしれません。

彼らは、大型トラックに轢き殺されようとしているようなものです。
そこで「轢かないでくれ!」と叫んでいるのです。
自分の子どもが車に轢かれそうになったら、あなたは「あぶない!」と叫ぶでしょう。


その声を「過激だ」という人もいるかもしれませんが、状況によっては、叫ぶしかない時もあるのです。


電力会社は原発がほしいのでしょうか?
お金がほしいのでしょうか?
経営的に追い詰められているのでしょうか?
原発を作る以外に方法はないのでしょうか?

日本という国は、三菱や日立や東芝は、原発を作り続けるしかないのでしょうか?
伊藤忠商事や住友商事は、ウラン採掘で儲けるしかないのでしょうか?

もっと違う方法はないのでしょうか?

それぞれの立場の中に、それぞれの、多種多様な意見があるでしょう。

本当は、今すぐに話し合わなければいけない、重要な、緊急な事が、たくさんあるはずです。

黙っているままでは、
現実をただただ傍観しているままでは、
「多様な意見がある」という事がわからないままでは、
為政者たちも、事業者たちも、僕たちひとりひとりも、議論のテーブルを作ることすら、できないでしょう。

「多種多様な声」の存在が発見された時、それらの声を大切にしようという動きが生まれるかもしれません。
多種多様な命を見つけた時に、「踏みつぶしたい」とは思わないでしょう。
「大切にしたい」と思うでしょう。

僕たちひとりひとりの声も、同じようなものです。
ひとつひとつが、ひとしく大事で、ひとしく愛おしいものであると、僕たちは本能的には、分かっています。

それらの声が表に出た時に、僕たちの本能は、何かを感じ、何かに気づき、何らかの反応をするでしょう。

多種多様な声の存在が認識された時、
そのような新しい認識の中で、新しい方向性が見えてくるかもしれません。


小さい声、繊細な命の営み、人知れず消えていこうとしているそれらを、
まだ見ぬまま、まだ知らぬままに消してしまっていいのでしょうか。

私の声とあなたの声が出会わないままに、このまま事が進んでしまっていいのでしょうか。

祝島の声、スナメリの声、カンムリウミスズメの声、海を守りたい者たちの声が、
工事の音にかき消されてしまっていいのでしょうか。

壊したものは、元には戻りません。

今僕の耳元には、壊されるかもしれない命、ギリギリの危機に直面している命の声が聞こえます。
その現実が、目に映ります。

これは、インターネット上のヴァーチャルな出来事ではありません。
テレビの前で起こっているストーリーではありません。
僕たちが当事者として関わっている世界で起こっている出来事です。

僕たちの世界から、僕たちの命から、僕たちのつながりの中から、
何かを消しさるべきか、壊すべきか、守るべきか、進めるべきか、止まるべきか、戻るべきか、、、、
新たな声が出てこなければ、現実はこのまま進むのです。

今すぐに戻ることはできなくても、止まることは出来るでしょう。

田名埠頭に集まる人びとは、実際に止めてくれています。
生活を削り、何かを犠牲にしながら、ブレーキのように体を張って、何とか止めてくれています。

その車輪を再び動かそうという意志が存在し続ける限りは、
彼らによるブレーキは、摩擦を生み、疲労を生むかもしれません。

阻止行動は、差し迫る危機を、破壊を、先延ばしにするための方法であり、
先延ばしにしてもらったおかげで用意された時間を、有効に使えるか、無駄にしてしまうのかの選択は、
現場にいる人たちではなく、その現場を見たり、聞いたり、知ったり、感じた人たちに委ねられています。

今ならまだ間に合うと感じます。

今なら僕も、希望を感じることができます。

それぞれの持つ、多種多様な「自分に出来ること」が積み重ねられていった先に、
今と違う状況、雰囲気が生まれることを願います。

そして、
新しい雰囲気の中から、今はまだ見ぬ新しいアイデアが生まれ、
新しい方向に命が連帯していけることを願います。

あらゆる場所で、あらゆる想いが、その存在を認められることを願います。

私たちの想いを守れるのも、命を守れるのも、私たちしかいません。

シーカヤッカー原康司君による「不安を勇気に変えてほしい」という言葉が、想いが、一人でも多くの人のスピリットに届けられるように願います。 

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