[CML 001465] 池田香代子さんへ 「銃弾はどこから 中村哲先生講演拾遺」の感想拾遺
higashimoto takashi
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2009年 9月 25日 (金) 12:27:49 JST
池田さん
「池田香代子ブログ」の読者の東本です。同ブログにコメントしようと思いましたが、同ブログでのコメ
ントの仕方がわかりませんので、本MLを通じてそのお仲間としての池田さん宛にコメントさせていた
だこうと思います。
池田さんの同ブログ2009年9月24日付記事の「銃弾はどこから 中村哲先生講演拾遺」を拝読しまし
た。
■銃弾はどこから 中村哲先生講演拾遺(池田香代子ブログ 2009年9月24日)
http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51257911.html
ペシャワール会の中村哲さんが東京での先の講演の際に発せられたという「彼(伊藤和也さん)の命
を奪った銃弾は、捜索に出た村人たちの銃から発砲された」という表白は当然私にとっても初耳でし
た。池田さんもご紹介されているように、この点について中村さんは現地での追悼会では「伊藤くんを
殺したのはアフガン人ではありません。人間ではありません。今やアフガニスタンを蝕む暴力であり
ます」という弔辞を読んでおられました。
中村さんの弔辞の言葉の意味について、池田さんは上記記事で次のように書かれています。
「アフガンに蔓延する暴力への強い憤りの表出であるとともに、もしも、伊藤さんを救おうとして不幸に
もその命を奪うことになってしまった村人がいたとしたら、その人にたいする深い心の底から発せられ
た慰めともうけとれることばです」
私も池田さんのこのご解釈に賛成です。その上での中村さんの先の講演会での表白であった、と私も
思います。
さて、以上は実は前置きなのです。私が本メールで述べたかったのは次のことです。
池田さんは同記事の続きで「アフガンに20年以上腰を据えた中村先生、さらには九州若松出身の
中村先生には、そうした理解が働くと思います」と書かれています。が、「九州若松出身の中村先生」
というのは不正確な表現だと思います。確かに中村哲さんは火野葦平の『花と龍』で描かれた若松
港沖仲仕(ごんぞう)の「任侠」の人、玉井金五郎の孫に当たります。
■愛の旅人 北九州市・若松港 火野葦平「花と龍」 玉井金五郎とマン
(朝日新聞「be」 穴吹史士記者 2005年10月8日付)
http://7ten.world.coocan.jp/aaa/ai05.html
そういう意味では確かに中村さんの出自は「若松」に求められるということはいえるのですが、「若松
出身」ということはいえません。中村さんは福岡市生まれの博多っ子です。
■『中村哲(医師)』(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%93%B2_(%E5%8C%BB%E5%B8%AB)
上記のように私が断言できるのは私自身が若松生まれ、若松育ちの「川筋もん」だからです。私の
瞼の中にはまだ石炭産業華やかなりし頃、刺青もんのごんぞう(石炭仲仕)たちが艀(はしけ)に板
を渡し、リヤカーで石炭を積み出していた若松港の貯炭場の風景が焼きついています。私の義理
の親父はそのごんぞうのひとりで、おふくろはそのごんぞうたちを相手に酒商売をしていて、ごんぞ
うたちが集まれば花札賭博はつきものでしたから、私は花札賭博をするごんぞうたちに囲まれて育
ちました。
池田さんのお父上が若松ご出身だとはこれも初耳でした。お父上がまだ生きておられれば私とは
話が合ったかもしれません。池田さんが「中村哲 あるいは「任侠、流行ってるんですか?」(2009
年9月19日付)で紹介されている葦平の三男の玉井史太郎さんは私が若い頃の少し年上の友人
でした。もう40年近く前の話です。史太郎さんが早稲田を中退しようとしたとき、親父の葦平が史
太郎さんに宛てた手紙を見せてもらったことがあります。その手紙にはあちこちに染みのようなも
のがありました。史太郎さんはポツリと言ったものです。「親父の涙の跡だよ」、と。
東本高志@大分
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