[CML 001462] Re: 議論の仕方について
higashimoto takashi
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2009年 9月 24日 (木) 21:40:52 JST
前田さん
前田さんの流儀と同じく私も吉田松陰評価の具体論には言及せず、「ある思想家」のその思想評価
に関わる一般論、方法論のあり方についてのみ私見を述べようと思います。
前田さんは「ある思想家の限界点を示すためには、全体的評価をする必要は」ない。「ある思想家の
ある時点の発言に、もし差別的思想を示すものがあれば、その一点をもって『「***は差別的であ
る』と批判しても当然のこと」だと言います。
前田さんが上記のように言うそのこと自体に私に異議があるわけではありません。しかし、前田さん
の上記の論は、「ある思想家」を正当に評価するに当たって、私たちが認識しておくべきもうひとつの
大切な要素ともいうべき視点が欠落しているように思われます。
それは一言でいえば「ある思想家」の歴史的限界性という視点です。別の言葉でいえば、歴史研究
者の間では常識ともいえる「現代」を基準にして「過去」を評価しては歴史の実相を見誤ることになり
かねない、という視点です。いうまでもなく誰も「時代の子」であることを免れることはできません。戦
国時代の武士に現在の「凶器準備集合罪」(刑法第208条)を適用しようとしても詮方ないでしょう、
という話です。
この点について少し文章を書いたことがあります。要旨、次のようなものです。
「レヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962)は、未開社会の親族構造を分析することで「野蛮」から
「進歩」へという、すなわち「野蛮(混沌)」から洗練された秩序が形作られたとするこれまでの通時
的(単純直線的)な近代西欧の理性中心主義の物の見方、認識方法に根底的な批判を加え、「野
蛮(混沌)」の象徴と結びつけられたいわゆる『未開社会』においても一定の秩序・構造、すなわち
文化が見出されることを論理的に実証した著作としてあまりにも有名です」
「ごく大雑把に言ってレヴィ=ストロースのこの『野生の思考』(1962)が上梓されて以来、通時的に
歴史を観る(「現代」を基準にして「過去」を評価すること)歴史認識の誤りについて私たち現代人は
根底的な反省を促されることになりました。歴史観は歴史家、また人によってさまざまであるものの、
過去を安易に今日の基準でみること、自分の時代の価値観や倫理感を機械的に過去へ適用し、
批判することは、歴史の実相を見誤ることになりかねないという認識では洋の東西を問わず今日の
歴史家はほぼ一致しているはずです」
「たとえば吉田松陰を評価しようとする場合、彼の唱えた幕末特有の概念である『尊皇』理念を今日
の右翼が使う侵略性・差別性・転倒性・ファシスト性を表わす『尊皇』概念と同一視して今日の基準、
価値観、倫理感で評価しても歴史の実相を見誤るだけです」
「『松陰の立場は下層武士の思想で、幕府を倒してでも能率的な政府を作り、外からの脅威に対抗
しようということだったと思います。』『これは水戸学派の観念論的なイデオロギーからは遠い立場で
す。また幕府の要人の暗殺や外国人の襲撃を内容とするテロリズムからも遠い考え方です』。松陰
の時代でいう『尊王』は、あの時代にあっては革新的な個人の精神の表現であったというべきだろう
という加藤周一の松陰評価(『吉田松陰と現代』)がありますが、私もそう思います」
東本高志@大分
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
----- Original Message -----
From: "maeda akira" <maeda at zokei.ac.jp>
To: "市民のML" <cml at list.jca.apc.org>
Sent: Wednesday, September 23, 2009 6:06 PM
Subject: [CML 001450] Re: 議論の仕方について
> 前田 朗です。
> 9月23日
>
> 南雲さん
> お返事ありがとうございました。
>
>>吉田松陰という人物の思想をどう評価するか、という場合、彼が晩年に到達した思想(それも幕府権力によって断ち切られてしまいますが)を、その弟子たちが理解し、発展させえたのか、それともある時点での思想を、師匠の思想のすべてとして、権力を掌握した後そのまま受け継いでいったのか、その点は区別されてしかるべきだと考えます。
>>
>> まして、松陰が大して評価していなかった「桂小五郎(木戸孝允)」や「伊藤俊輔(伊藤博文)」が、彼の弟子として一部の朝鮮問題研究者からその外交思想が松陰の思想と関連付けて問題にされている以上、彼が死の直前に到達した思想と、それとは異なった方向へ行ってしまった明治以降の日本の歩みは、明確に区別されてしかるべきです。
>>
>
> 私は松陰には興味がないので、以上の点について直接のコメントはしません。
>
> しかし、南雲さんの主張には、一般論として、賛成できません。方法論が間違っ
> ているからです。
>
> 思想史研究そのものをめざして議論する場合に、その思想家の初期から晩年まで
> の全体をできる限りトータルに捉え、発展過程を跡付けることには大いに意味が
> あります。
>
> しかし、ある思想家の限界点を示すためには、全体的評価をする必要はありません。
>
> ある思想家のある時点の発言に、もし差別的思想を示すものがあれば、その一点
> をもって「***は差別的である」と批判しても当然のことです。
>
> それに対して、「いや、***は、晩年には、これこれの到達点に達した」と指
> 摘しても、反論とはいえません。両者は両立するからです。
>
> むしろ、真の問題は、ある時期に差別的発言をした思想家については、「その差
> 別的発言をきちんと反省して、取り消した上で、次の発言を行なった事実がある
> か否か」です。そうした事実がないのに、「晩年の思想の到達点」を唱えるの
> は、ごまかしにすぎないでしょう。贔屓の引き倒しかもしれません。
>
> 私は「石原慎太郎は度し難い、根深い人種差別主義者である」と断定して、非難
> します。
>
> 南雲さんは、「石原慎太郎が晩年に到達した思想を充分吟味し、彼が死の直前に
> 到達した思想を確認するまでは、一概に人種差別主義者と断定するべきではな
> い」とお考えでしょうか?
>
> 「石原なんかを松陰と一緒にするな!」と怒らないでくださいね(笑)。
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