[CML 001450] Re: 議論の仕方について

maeda akira maeda at zokei.ac.jp
2009年 9月 23日 (水) 18:06:45 JST


前田 朗です。
9月23日

南雲さん
お返事ありがとうございました。

>吉田松陰という人物の思想をどう評価するか、という場合、彼が晩年に到達した思想(それも幕府権力によって断ち切られてしまいますが)を、その弟子たちが理解し、発展させえたのか、それともある時点での思想を、師匠の思想のすべてとして、権力を掌握した後そのまま受け継いでいったのか、その点は区別されてしかるべきだと考えます。
>
> まして、松陰が大して評価していなかった「桂小五郎(木戸孝允)」や「伊藤俊輔(伊藤博文)」が、彼の弟子として一部の朝鮮問題研究者からその外交思想が松陰の思想と関連付けて問題にされている以上、彼が死の直前に到達した思想と、それとは異なった方向へ行ってしまった明治以降の日本の歩みは、明確に区別されてしかるべきです。
>

私は松陰には興味がないので、以上の点について直接のコメントはしません。

しかし、南雲さんの主張には、一般論として、賛成できません。方法論が間違っ
ているからです。

思想史研究そのものをめざして議論する場合に、その思想家の初期から晩年まで
の全体をできる限りトータルに捉え、発展過程を跡付けることには大いに意味が
あります。

しかし、ある思想家の限界点を示すためには、全体的評価をする必要はありません。

ある思想家のある時点の発言に、もし差別的思想を示すものがあれば、その一点
をもって「***は差別的である」と批判しても当然のことです。

それに対して、「いや、***は、晩年には、これこれの到達点に達した」と指
摘しても、反論とはいえません。両者は両立するからです。

むしろ、真の問題は、ある時期に差別的発言をした思想家については、「その差
別的発言をきちんと反省して、取り消した上で、次の発言を行なった事実がある
か否か」です。そうした事実がないのに、「晩年の思想の到達点」を唱えるの
は、ごまかしにすぎないでしょう。贔屓の引き倒しかもしれません。

私は「石原慎太郎は度し難い、根深い人種差別主義者である」と断定して、非難
します。

南雲さんは、「石原慎太郎が晩年に到達した思想を充分吟味し、彼が死の直前に
到達した思想を確認するまでは、一概に人種差別主義者と断定するべきではな
い」とお考えでしょうか?

「石原なんかを松陰と一緒にするな!」と怒らないでくださいね(笑)。








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