[CML 001695] Re: 10月10日に処刑された朝鮮独立運動家、チョミョンハとイボンチャン

鈴木俊彦 tosihico at u01.gate01.com
2009年 10月 15日 (木) 11:10:43 JST


亀田様

突然のメールで失礼します。
趙明河、李奉昌が日本の天皇制を果敢に攻撃した事実をご紹介下さりありがとうござ
いました。
ここまで敢行した日本人が誰もいなかったことに、複雑な思いがします。天皇の暗殺
といえば
孝明天皇暗殺説ぐらいでしょうか。
実は亀田様に質問があります。素人のレベルの低いもので恐縮ですが。
安重根記念館にある、彼が指摘した「伊藤博文の罪」の中に確か次のような罪状があ
ります。
一つには、伊藤博文が天皇に嘘を告げたこと。
もう一つには、伊藤博文が天皇の父を殺した一味であること。
孝明天皇の暗殺に加わるには伊藤は若過ぎた気がしますが、天皇に「嘘の報告」をし
たことは
その通りだったでしょう。
私はその罪の是非ではなく、安重根がこのような罪状を記した訳つまり「天皇に対す
る罪」を
「伊藤処断」の根拠としたことがよく分からないのです。
彼が日本の軍隊だけでなく天皇制も前提にしていた、ということでしょうか。その前
提に立ち、
天皇に単に事実を述べたに過ぎないのでしょうか。そうだとしても、それを「罪」と
規定した
のはなぜでしょう。
日本の天皇に対しても、大韓帝国皇帝に対するようなある種の「敬意」のようなもの
が彼にも
あったのだろうか…と考えてしまいます。

鈴木俊彦

-----Original Message-----
From: cml-bounces+tosihico=u01.gate01.com at list.jca.apc.org
[mailto:cml-bounces+tosihico=u01.gate01.com at list.jca.apc.org] On Behalf Of
1926723 at jcom.home.ne.jp
Sent: Saturday, October 10, 2009 1:15 PM
To: cml at list.jca.apc.org
Subject: [CML 001633] 10月10日に処刑された朝鮮独立運動家、チョミョンハとイボ
ンチャン

 10月10日は当時の新聞にも大きく「事件」、「裁判」として報道されているが
二人の朝鮮独立活動家が、処刑された日である。
 1928年、1932年と時代は異なるが、いずれも刑法の73条
いわゆる大逆罪と75条の皇室に対する罪に問われている。

 攻撃対象となった当人たちは無傷である。
量刑が死刑しかない刑法73条、死刑と無期懲役の75条に付されたことによる。

 景福宮に乱入し閔妃を殺害した日本人側の襲撃者が、予審段階で
<裁判にもかけられていない。現在でいえば「取調べ」段階である。
 裁判と勘違いをする方がいるので注意>で免訴になった事とは大きな違いがある。

 一九二八年五月一四日、朝鮮の独立活動家、チョ・ミョンハ(趙明河)は台湾、台中
で天皇の義父、
久邇宮邦彦を短刀により襲撃するも失敗に終わり逮捕された。
 台北高等法院上告部で七月七日に公判が開かれ、事実調べ、検事論告、弁論が行わ
れ結審をした。
金子裁判長は同年七月一八日、刑法七五条<皇室に関する罪>前段を適用し死刑判決
を出した。
一〇月一〇日、台北監獄にて処刑された。(記事解禁後の「朝日新聞」による)
 あえて死刑の前段を適用したのは過酷な弾圧である。

 一九三二年一月八日、警視庁前から桜田門に天皇ヒロヒトの馬車が通過せんとした
とき
イ・ボンチャン(李奉昌)が爆弾を投げつけた。宮内大臣乗用の馬車の後車輪付近に落
ちて
馬車に軽微の損傷を与えた。
 イ・ボンチャンは、
上海の韓国臨時政府の重鎮で韓人愛国団長の金九を訪ね天皇打倒の
決意を語っていた。
 東京に向かう前年の一二月に愛国団に加入した。一九三二年六月三〇日に予審終
結、
大審院は七月一九日に審理に付すことを決定。

 九月一六日に即日結審、三〇日に死刑判決を出し、十日後の一〇月一〇日午前九時
市ヶ谷刑務所にて処刑された。


 大逆罪弾圧と日本のアジア侵略は不可分の関係である。侵略された被植民地の独立
活動家の少なからずは日帝、日本の天皇を攻撃目標としていた。
 朝鮮の独立活動家シン・チェホの起草による義烈団の「朝鮮革命宣言」(一九二三
年一月)には
日本天皇を攻撃、打倒目標として明確に掲げていた。独立闘争の理念と具体的行動を
長文で宣言している。大審院が翻訳させた全文から一部を引用する。

「革命の記録は必ず惨絶壮絶然れども退かば後面は暗黒の陥穽にして、進めば前面に
は光明の活路あ
り。我が朝鮮民族は其の惨絶荘絶なる記録を以て前進すべし。茲に於て暴力、暗殺、
破壊、暴動の目
的を大略挙ぐれば、
 一、朝鮮総督及各官公吏
 二、日本天皇及各官公吏
 三、探偵奴、売国賊
 四、敵の一切施設物」
と打倒目標を掲げている。

(念のため補足。全文は引用できないが、革命宣言は自民族、社会の革命が本質であ
る。
日帝打倒、あるいは官憲、売国奴打倒は建設のための破戒としている。第四、第五を
転載しておく)

【第四、社会的不平均を破壊するにあり。何となれば、弱者の上に強者あり、賎者の
上に貴者あつて
所有不平を抱いて居る社会は互いに掠奪、互いに剥削、互いに嫉妬仇視する社会とな
りて初めには
少数の幸福を計る為多数の民衆を惨害したる結果、畢竟、少数の間にも惨害し、民衆
全体の幸福が
数字上零となるべし。故に民衆全体の幸福を増進せしむる為社会的不均等を破壊する
ものなり。
第五は奴隷的文化思想を破壊するにあり。何となれば、遺来の文化思想中宗教、倫
理、文学、美術、
風俗、習慣何れが強者の製造にして強者を擁護するものにあらざるや。】

 それまでの強制条約批判、独立宣言を踏まえているが、それらの限界を越える内容
である。

 アン・ジュングンの「伊藤博文の罪」は、1905年の乙巳・ウルサ条約強制直後の11
月20日付『皇城・ファンソン新聞』に張志淵・チャンジヨンが「是日也放声大哭」を
掲載、その伊藤博文批判、<「保護」の五条約が東洋三国の分裂する兆候>や崔益鉉
チエイッキョン・の「棄信背義十六罪」の「継承」であり、アンジュングンの「東洋
平和論」は帝政や国権、日本の軍隊の存在を前提とした主張である。
(岩波書店刊の雑誌『世界』10月号がアンジュングンの「東洋平和論」を漢文からの
新訳として掲載しているが、単に遺稿としての「東洋平和論」の紹介であり、訊問調
書、判決後に旅順監獄で聴取された「陳述」での東洋平和論の紹介はされなく、また
全く触れられていない。論文タイトルに誘導されたままの限定された東洋平和論の掲
載に終ったことが惜しまれる。)
   
 1906年6月に蜂起した崔益鉉は「棄信背義十六罪」の問罪状を日本に送っている。
「韓国の独立・自主の明言、信を破り韓国を不法に侵害、甲申政変、王宮占領、閔妃
殺害、乙巳条約
にいたる十六項目を列挙」
日本が棄信背義を謝罪、韓国支配を止めることを求め、そのうえで東洋平和のための
韓日清三国の協力の必要を
説く」この部分は『韓国併合』海野福寿、1995年、169頁よりの引用。

 また二・八「宣言書」は生存権での闘争は主張しているが全体は理念的という限界
がある。

【わが民族は生存の権利のために自由な行動をとり、最後の一人に至るまで必ずや自
由のために

熱血をそそぐであろう。これがどうして東洋平和の禍根とならないであろうか。わが
民族は一兵

も持っていない。わが民族は兵力をもって日本に抵抗する実力はない。しかしなが
ら、

日本がもしわが民族の正当な要求に応じなければ、わが民族は日本に対し永遠の血戦
を

宣布せざるを得ない。わが民族は高度の文化を持ってからすでに久しい。

そしてまた半万年にわたる国家生活の経験を持っている。たとえ多年の専制政治の

害毒と境遇の不幸がわが民族の今日を招いたものであるにせよ、今日より正義と自由
とに

もとづく民主主義的先進国の範に従い、新国家を建設するならば、わが建国以来の文
化と

正義と平和を愛好するわが民族は必ずや世界の平和と人類の文化に対し貢献するであ
ろう。】

 三・一独立宣言の眼目は公約三章にあるが、

「一、正義、人道、生存、尊栄のための民族的要求、自由の精神を発揮、排他的感情
になるな。

ニ、最期の一人、一刻まで民族の正当な意思を発表せよ。
三、行動は秩序を尊重し主張と態度を公明正大にやろう、
と行動の指針を示し

「日帝に奪われた国権と民族の自由の回復、自主の精神を全世界に見せる」
と抽象的である。


 台湾や朝鮮を侵略し植民地支配していた日本帝国主義は本国の刑法を支配地におい
て準じて適用して
いた。
「朝鮮革命宣言」を公表、配布をすれば不敬罪の対象となりまた、その主張に同意を
すれば大逆罪、刑法
七三条の容疑にて弾圧されるのは必定であった。

 天皇を神格化した大日本帝国憲法のもと刑法七三条は
一九〇八年一〇月に旧刑法の改変にともない整えら
れた。条文は「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ
又ハ加ヘントシタル
者ハ死刑ニ処ス」。
 皇室関連の同様に七五条がある。1947年に現刑法から削除された。
                               
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 Kameda







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