[CML 001978] Fw: 「韓国のヒロシマ」陜川での交流会報告&韓国・原爆2世 韓正淳(ハン・ジョンスン)さんのお話

higashimoto takashi taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2009年 11月 10日 (火) 11:42:31 JST


韓国・大邱(テグ)市在住の岡田卓己さんから標記の貴重なレポートをいただきました。

韓国と韓国人(もっと正確にいえば朝鮮半島)の「ヒロシマ」問題は、ときおりメディアでとりあげられ
ることはあっても、その表層の部分をなぞるだけのような記事がほとんどで、私たち日本人に一般
によく知られている問題とはいえません。岡田さんのご紹介される韓国「原爆2世患友会」会長の
韓正淳(ハン・ジョンスン)さんのお話(添付2)は岡田さんだけでなく、私の胸にも深く々々突き刺さ
りました。在韓被爆者の現状、韓国の被爆2世(3世)の現状(岡田さんは「あまりにもすさまじい実
態」と表現されています)が被爆2世当事者としてでしか語りえない言葉で語られています。どうぞ、
お読みいただければ、と私からもお願いさせていただきたいと思います。「転送歓迎」とありました
ので、転送させていただく次第です。

なお、同レポートには臨場感のある写真が十数葉添付されていましたが、メール送信の仕様の関
係で割愛せざるをえませんでした。

以下、転載です。

東本高志@大分
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp

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大邱在住の岡田 卓己です。

11月1日から2日にかけて、「韓国のヒロシマ」とも言われる陜川(ハプチョン)郡議会は、Walk9/
韓国巡礼を「韓国赤十字社 陜川原爆被害者福祉会館」と海印寺(ヘインサ)へ招待しました。9
月9日に江華島をスタートし、100日間の韓国徒歩巡礼を行っているWalk9の方々に、韓国被爆
者の現状をぜひ知ってもらいたいと願ってのことです。

私もこの交流会に同行しましたので、報告を書いて添付いたしました(注:添付1)。

在韓被爆者の現状、特に日本政府・韓国政府(そして当然米国政府)から、何の支援もしてもら
えていない被爆2世の現状を「韓国原爆2世患友会」会長の韓正淳(ハン・ジョンスン)さまより
初めてお聞きし、とても胸を痛めました。

皆さま
ぜひ、添付ファイル
韓正淳会長のお話.doc
をお読みください。(注:添付2)

そして、日本の被爆者と韓国の被爆者のより強い連帯を求めます。
とくに、在韓被爆2世は、日本の被爆2世の方々と連絡をとり、共に運動を進めたいと願ってい
ます。また、日本の多くの方々にこの現状を知ってもらいたいと願っています。

日本の被爆2世の運動や団体について、何かご存じのことがありましたらお教えいただけない
でしょうか。

岡田 卓己  拝
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■添付1:【Walk9陜川(ハプチョン)交流会報告】
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韓国の被爆者問題について

陜川(ハプチョン)郡議会がWalk9を招待

11月1日(土)から2日(日)にかけて、陜川郡議会は、9月9日に江華島をスタートして韓国を
徒歩巡礼しているWalk9/韓国巡礼の方々を、韓国赤十字社 陜川原爆被害者福祉会館と、
今、紅葉がきれいな海印寺(ヘインサ)へ招待しました。

去る10月17日(土)、大邱(テグ)市で開催された「戦争と平和を考えるWalk9交流会」に、「韓
国原爆2世患友会」の韓正淳(HanJeongSun)会長、陳景淑(JinGyeongSuk)事務局長、朴賢
珠(PakHyeonJu)陜川郡議会議員たちも参加してくださいました。朴議員は初めてWalk9のこ
とを知り、感動され、議会に働きかけてくださり、今回の陜川郡議会としての招待となりました。

11月1日午後、陜川原爆被害者福祉会館に到着したWalk9は、まず1997年に建立された慰
霊閣の前に行き、広島・長崎で亡くなられた韓国・朝鮮の方々をはじめとするすべての方を
追悼するため、祈りを捧げました。ここには、現在947位の位牌が安置されており、広島の太
陽会理事長、高橋公純氏が一つずつ位牌の文字を書き続けておられるとのことです。(慰霊
閣の説明文全文は、添付の別ファイル(注:添付3)を参照)

そして次に、Walk9/韓国巡礼の先輩に相当する「ストーンウォーク・コリア 2007」の碑石を見
学しました。(碑石の横にある、ストーンウォーク・コリア 2007の説明文全文は、添付の別フ
ァイル(注:添付4)を参照)

その後、会議室に移動し、原爆被害者福祉会館のカン・スファン氏から説明を受けました。

「大韓赤十字社 陜川原爆被害者福祉会館」が竣工したのは1996年で、現在定員一杯の110
名の被爆1世の方が入館しておられます。また、現在の入館希望者(待機者)は、87名です。
1990年に、韓・日政府が「在韓原爆被害者福祉事業」について合意し、両政府から合わせて
40億円の支援金が支出され、24億円を使って建設されました。残りの金額は、運営費や増
築の費用に充てられたとのことです。

広島・長崎での被爆者は69万1500名、その内の約7万名が「韓国人」(=朝鮮半島出身者)
被爆者です。しかし、この数字は公式の調査によるものではなく、『韓国の広島』(市場淳子
著、歴史批評社 2003年)からのものです。

また、韓国の「原爆被害者全国登録現況」によると、現在の登録者は2669名で、陜川457名、
大邱364名、慶尚道562名、釜山598名、蔚山36名など、慶尚南・北道周辺だけで2000名を越
えています。これまで、韓国政府は被爆者の公式統計調査をしたことがなく、会館の説明で
は、現在の在韓被爆者の生存者数は、1万名を越えるのではないかとのことです。

1978年に陜川郡独自で調査を行った結果では、当時の陜川郡内の被爆者は6007名であっ
たということです。

さらに、被爆2世については、韓国政府、日本政府ともなんの支援の手を差し伸べていませ
ん。(後述)

討論の中では、「なぜ陜川が『韓国のヒロシマ』と言われるほど、被爆者が多かったのか」と
いう質問が出ました。それは「広島・呉の地域は日本海軍を中心とする軍事基地・軍事工場
地域だった。そこで、陜川地域の人々は広島地域に多数強制動員された。また、陜川は土
地が痩せており、貧困で出稼ぎに出なければならなかった。その場合、すでに日本に移住し
ている人を頼るので、陜川の人が広島に集まった」(韓国原爆被害者協会陜川支部・沈鎭泰
(ChimJinThae)支部長)とのことです。

最後に、入館者で「私の日本名は、松本 君代でした」と話しはじめたキム・イルジョ(KimIlJo)
ハルモニから、広島での被爆体験を伺いました。日本で生まれ、1944年17才で勤労挺身隊
として5ヶ月間軍事工場で働いたこと。勤労挺身隊は遠方に送られることもあるので、この年
の12月に急いで結婚したこと。夫は三菱重工で働いていたこと。被爆当時は広島の江波(え
ば)町という所で貸屋に住んでおり、江波町には韓国人が集まっていたこと。8月6日当日は、
ピカッと光ったとたん、家がすぐにつぶれて下敷きになり、なにもわからなくなり、今でも頭に
傷があること。多数の死体をそのまま海に捨てたが、その後遺体を焼き、10日後くらいまで
は人間を焼く臭いがし続けたこと、などです。また、韓国での被爆者登録は、被爆したことを
証明する保証人2人が必要だが、被爆当時近くに住んでいた方々の何人もの保証人になっ
たこともお聞きしました。

その後、一行は紅葉のきれいな海印寺(ヘインサ)に案内されました。まず、海印寺のご住
職さまから、お茶をいただきながら説明を受けました。

海印寺は、1200年以上の歴史のある寺院であり、高麗時代に江華島からモンゴルの侵略
に備えて移された高麗大蔵経の木版81350枚が保管されています。

しかし、ここにも日帝植民地支配の傷跡が残されています。

境内にある、毘盧塔(写真下)は統一新羅時代の歴史遺産ですが、台座の部分は日帝時
代に日本によって壊され、中に入っていた文書などすべての奉納品が奪われました。本来
は国宝に値する遺物ですが、その歴史的な価値を減ぜられているそうです。

海印寺の境内と周辺にある何本もの松の木は、日帝時代に軍需工場で機械の潤滑剤とし
て使う松ヤニ採取のため、Vの字に傷を付けられ、その傷跡を今にも伝えています。

夕食をお寺の食堂(普通の精進料理に山菜を追加してくださいました)でいただいた後、夜
の交流会を行いました。大邱市に在住の「韓国原爆2世患友会」の韓正淳(ハン・ジョンスン)
会長と陳景淑(チン・ギョンスク)事務局長は、被爆2世の置かれている現状についてお話
くださいました。(「韓正淳会長の話」、添付の別ファイルを参照)

被爆1世の問題もそうですが、被爆2世の方々は、日本政府からも韓国政府からも(もちろ
ん米国政府からも)置き去りにされ、何の手当も受けていません。しかし、私も2世患友会
のおふたりに出会うまで、そのあまりにもすさまじい実態についてほとんど知識もありませ
んでした。

特に被爆2世でも、症状が現れていない人の中には、問題が遺伝問題という本人にとって
あまりにも深刻な問題だということもあり、「あまり表面化してくれるな」という人もいるようで
す。日本でも、現状は同様なようです。「韓国原爆2世患友会」では、日本の被爆2世の方
々とも連絡をとり、日本・米国・韓国政府に補償・支援を求める運動を共同で行っていきた
いと願っています。しかし、日本の被爆2世の運動との連携もまだあまり取れていないのが
現状だそうです。

被爆2世の病気が「原爆の被爆・被曝による『遺伝性』のものである」ということを、日本政
府や韓国政府が認定してしまうと、とても多くの方々に支援の手を差し伸べなければなりま
せん。この点が、両政府が被爆2世を「原爆による被害者」として認定しない大きな要因に
なっているのではないか、とのことでした。しかし、韓正淳会長の訴えのように、韓国におい
ても被爆2世の置かれている状況はとても深刻なものです。「韓国原爆2世患友会」初代会
長の故・キム・ヒョンニュル氏が掲げた「先に支援、後究明」の認定と支援」を、日・米・韓政
府に強く求めなければなりません。

Walk9の方々も、原爆2世患友会の訴えに、涙を流して聞き入っている人もおり、最後に
櫛田寒平さんは、「とても重い問題ですので、私達は歩きながら私達に何ができるか考え
続けます。そして、日本の人々にこのことをしっかり伝えます」と発言しました。私も、「今日
の集まりを日本の人々にしっかり伝えます」と発言しました。

患友会のおふたりと私の3人は、翌日の仕事のため、この夜に陳景淑事務局長の車で大
邱へ帰りましたが、韓正淳会長は車の中で「Walk9の皆さんに会えてよかった。Walk9は、
私が訴えたいことを心で感じて分かってくれる。Walk9の方たちの心は、熱くて暖かい」と
喜んでいました。

「韓国のヒロシマ」と呼ばれる陜川での交流会、私にとって多くの問題を考えさせられた大
切な一日でした。

「ストーンウォーク・コリア 2007」の方々と、「Walk9/韓国巡礼」の方々が、私を韓国での被
爆者・被爆2世の方々を結びつけてくれました。この2つの‘Walk”に、感謝いたします。

岡田 卓己(Okada Takashi)記
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■添付2:【韓正淳会長のお話】
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韓正淳(HanJeongSun)さま、11月1日Walk9との交流会でのお話(海印寺にて)

こんばんは。

「原爆2世患友会」会長・韓正淳(ハン・ジョンスン)です。

このようにお会いすることができ、嬉しいです。「韓国原爆2世患友会」についてお話いた
します。

「原爆2世(被爆2世)」とは!

1945年8月6日広島に、8月9日長崎に原爆が投下され、そこに住んでいた祖父母や父母
が被爆し被害者となり、その子供たちに遺伝し、現在苦痛を受けている人たちを「2世患
友」といいます。私も原爆について知るようになったのは、私自身が患者だからです。しか
し、私たちは、核戦争がいかに多くの人々を殺し、痛み・病気が遺伝され、いまだその戦
争の中から抜け出すどころか、いつ終わるとも知れない人生に、嫌悪さえも感じています。

皆さん!

去る2002年、最初に「原爆2世患友」であることを表明された初代会長、故・キム・ヒョン
ニュル様は先天性免疫グロブリンという奇病で、肺が普通の人の30%しかなく、少しでも
疲れたり風が吹いただけでも、激しい咳がでるので、夏でも長袖姿をして出かけなけれ
ばなりませんでした。学校生活と社会生活を、順調に過ごすこともできませんでした。幼
いころから、肺炎で病院を数十回も入・退院を繰り返す生活をしながら、遺伝性の病気
であるということを知って、お母様が原爆被害者であることを表明され、明らかに原爆の
放射能が原因で遺伝したのだということを世間に知らせました。さらに、自分一人だけで
はなく、もっと多くの被害者がいることということを予測して、韓国政府と日本政府に、患
友たちがかろうじて病魔と闘っているという事実を認定し、厳しくやっと生きている患友を
「先に支援、後究明」してくれ、と叫びながら飛び回っていましたが、病気が悪化し、35才
の若さでこの世を去りました。

彼の後を引き継いだ、2代目チョン・スクヒ会長も、大腿部無血性壊死症で両脚に人工
関節手術を受けました。不自由な体でも、苦痛を受けている患友と一人でも多く共に生
きていくために、ひとりひとりの患友の方たちの元へ通い続けました。

3代目の私が会長を受け持って、陳景淑(チン・ギョンスク)事務局長と一つになって最
善をつくし努力していますが、体が悪く無力な私たちにはあまりにも重い荷物で、私たち
の政府や日本政府まで力が届かず、得たものは疲れだけ、疲れた身体と溜め息だけ
でした。私たちの両親は、強制徴用で連行され、強制労働者にならなければならなかっ
たし、原爆被害者にならなければならなかったし、財産もなく乞食同然になっただけでも
足らず、子供たちにまで病気の苦痛を引き継いで(遺伝して)くれました。これを、黙って
見つめるほかない父や母の心は、真っ黒に燃えつくすような苦痛を味わったわけです。
それでも認定さえしないとは、話にもなりません。

皆さん!

私の父母は被爆当時、広島に住んでいました。

被爆の被害にあって、持つものは何もなく、原爆被害者だということの他には何もなか
ったのです。

そうして、故郷の陜川(ハプチョン)にまた戻って、2男4女の6人の兄弟姉妹を産みま
した。

私は、6人の兄弟姉妹中5番目に生まれました。幼い時から虚弱で、よく倒れたりしま
した。少し大きくなれば良くなるだろうと言われたのに、日が経つにつれてひどくなりま
した。私が15才の年からひどい痛症で苦痛は始まりました。しかし、育ち盛りだったの
で成長過程だからだろうと思いましたが、ますますひどくなり、就職してもやめるという
ことを繰り返しました。やがて結婚もして、2人の子供の母となった私は、これ以上歩く
ことができなくなったのです。病院に行って受けた診断は、大腿部無血性壊死症で両
脚に人工関節手術を受けることとなり、その費用も侮れませんでした。30代初めに手
術を受けたのですが、一度で終わる手術ではなかったのです。人工関節の寿命は10
年、その後また手術を受けなければならなかったので、その苦痛はとうてい話しつくせ
ないものでした。

これだけではありません。長姉は62才ですが、一生目まいで苦痛を受け、二番目の
姉は腕関節手術を受け、三番目の姉は私と同様に足の人工関節手術を受け、兄は
心筋梗塞狭心症手術を受けて、4姉妹は皆、紅斑という皮膚病を病み、6人の兄弟
姉妹は皆、血圧薬を飲むことが不可欠になったのです。

私の息子は、ですから3世となりますが、今27才で、先天性脳性麻痺で、いまだに自
ら一人でできることは何もなく、横になって生活しています。

充分話しつくせませんでしたが、私の家族の話はここまでにします。

今、私たち患友の現状は以下のようです。[会員人員500人余り]

先天性免疫グロブリン、大腿部無血性壊死症、精神分裂、ダウン症候群、甲状腺癌、
皮膚病、高血圧、糖尿病、筋弛緩症、肝臓癌、視覚・聴覚障害、心筋梗塞狭心症、
各種癌など多様に症状が現れています。また、ひどい症状の方々は30〜40代でお亡
くなりになる方々が増えて、10才未満の人もたくさんこの世を去りました。病気のこと
さえも、心おきなく「病気だ」と話すことができず死んでいきながらも、病院費を心配し
なければならなくなっているのが、現在の「原爆2世患友」たちの実情です。

すべての戦争は、始まりがあれば終わりもあります。勝利した国もあれば敗れた国も
あるでしょうが、戦争が終わった果てには被害者だけが残るのです。それより悲惨な
ものは核戦争です。私たちの意志とは関係なく、核の被害者の子供は、生まれたその
日から戦争が始まるのです。

核戦争のトンネルは、終わることがありません。このように長いトンネルでさまよって
いる私たちの苦痛は、原爆被害者、強制徴用、「慰安婦」ハルモニに比べても、歴史
的にそれほど資料が残っていないので、世の中に知られることもなく、丸ごと、私たち
の宿命として背負っていかなければならない宿題になっています。

ですが、私どもが背負っていくにはとても荷物が重く、死ぬ程つらくて耐えることができ
ません。

それでも、動くことができる人は、自らの人生の話も伝えることができますが、精神発
達障害、ダウン症候群、視覚・聴覚障害を抱えている方は保護者なしでは外出も不可
能です。私たちはこうした方々のために、激励と関心を惜しまず支持して下さる方々が
いるので、「先に支援、後究明」の目的達成のために努力しています。

再び、この世に原子爆弾が、戦争がない世の中を望みます。

痛みはもうご免〜〜 

いつかは、私たちの政府や日本政府も認定して下さるだろうと信じること一つで、力
が及ぶ限りは行動してみようと思います。

とても長い長いトンネルの中で、満足に光を見ることができないままお亡くなりになっ
た患友たちのためにも、決して挫折しないで、天にいらっしゃる方々は天で、私たち
は地上で、叫んではまた叫んで、日本政府と米国政府の責任放棄には補償を、また
私たちの政府には特別法制定を要求して、それが成し遂げられるその日まで頑張る
つもりです。ありがとうございました。
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■添付3:【慰霊閣の案内文】(日本語の部分)
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案内文

1945年8月6日、日本の広島市に初の原子爆弾が投下され、さらに8月9日長崎市
に投下され、一瞬にして数74万の犠牲者が出ました。この74万の中に韓国人が約
10万人があったことを知っているでしょうか。この10万の中で日本で死亡した韓国人
約5万人、その後4万3千人ぐらいは韓国に帰国し、7千人ぐらいは日本に残ったと
いわれますが、韓国人の被爆者実態調査が遅れた事と韓国には日本のように被爆
者に対する援護への法律が無いため、その実態が明確ではありません。韓国人に
とって長いこと、被爆への怒りをぶつけるところがありませんでした。しかし、ようやく
被爆から52年後の1997年、韓国の広島、すなわち韓国では被爆者の最も多いこ
の陝川に、高橋公純(太陽会理事長)が日本人としての懺悔の心を表したいとして、
自費でこの慰霊閣を建立しました。慰霊閣の中の位牌も、高橋理事長が毎年毎年
直接書き、2002年現在で700位を越しました。私達被爆者は、日本被爆者ほど世界
に訴えることも出来ず、又、世界に知られているわけでもなく、援護も受けていませ
んが、毎年広島原爆投下日の8月6日には、ここに集まって慰霊祭を行っています。

社団法人 韓国原爆被害者協会陝川支部
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■添付4:【陜川原爆被害者福祉会館内、「ストーンウォーク・コリア 2007」の碑石の
説明文】
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ストーンウォーク・コリア 2007  戦争犠牲者追悼碑

「ストーンウォーク」とは、すべての戦争犠牲者を追悼し、世界の平和を願って、墓石
に見立てた重さ約1トンの碑石を引いて歩くというもので、1999年に米国で始まりま
した。

被爆60周年にあたる2005年夏、原爆投下を謝罪したいという米国の人々の呼びか
けによって、「ストーンウォーク・ジャパン 2005」が日本の長崎−広島間で行われま
した。その日本側参加者の中から、「次は朝鮮半島に行こう」という声が上がりまし
た。日本による侵略と植民地支配について謝罪し、友好を深め、共に平和を作って
いこうと、「ストーンウォーク・コリア 2007」を計画しました。

韓国側でも趣旨に賛同する人たちが集まり、日韓の実行委員会は協議を重ねまし
た。2007年3月、かって多くの朝鮮人が強制連行された福岡県の筑豊から北九州
まで「プレ・ストーンウォーク」を2日間行った後、碑石は玄界灘を渡りました。4月
29日、釜山から「ストーンウォーク・コリア 2007」が始まり、陝川(ハプチョン)を訪れ、
智異山を越えました。そして光州や天安、ソウルを経て6月15日臨津閣に到着しま
した。その後は休戦ラインに沿ってフィールドワークを行い、6月25日金剛山で平和
祈願祭を催し、約2ヶ月にわたる平和巡礼の旅が終わりました。

碑石については、地元の方々のご協力を得て、韓国で原爆被害者がもっとも多く
居住し、「韓国のヒロシマ」と呼ばれているここ陝川に置くことに決めました。「謝罪
と友好、平和」への思いを込めたこの碑石が平和の種子となり、ひとりひとりの心
に平和が芽生え、平和の花が世界に咲き広がることを願っています。

2008年 8月 6日
ストーンウォーク・コリア 2007 日韓実行委員会
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