[CML 000185] 後論:作家・村上春樹のエルサレム賞受賞記念スピーチは卑怯、惰弱の弁というべきではなかったのか?

higashimoto takashi taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2009年 5月 31日 (日) 12:13:27 JST


村上春樹の新作が売れに売れているといいます。

以下のような具合です。

■村上春樹さん:新刊「1Q84」、発売日に68万部(毎日新聞 2009年5月29日)
http://mainichi.jp/select/today/news/20090530k0000m040039000c.html
■村上春樹さん7年ぶり長編 「1Q84」発売始まる(中日新聞 2009年5月28日)
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2009052802000151.html
■村上春樹さん新作、都心で発売  5年ぶりに、ファン次々と(共同通信 2009年5月27日)
http://www.47news.jp/CN/200905/CN2009052701000675.html
■村上春樹氏の新作長編、発売前に増刷(朝日新聞 2009年5月26日)
http://www.asahi.com/culture/update/0526/TKY200905260258.html

たまたま見た2、3日前の「報道ステーション」(テレビ朝日系)では同番組のメインキャスターの
古館伊知郎が、この《パニック発作》とでも形容したい村上春樹の異常な新作人気と例の彼の
「エルサレム賞」受賞記念スピーチとを関連させて、村上の精神性の深さなるものを讃えていま
したが、この村上の「エルサレム賞」受賞記念スピーチなるものは、昨年末から今年の初めに
かけて約3週間にわたり、150万人ものパレスチナ人を「壁」の中に閉じ込め、避難所であった
女学校への無差別空爆、幼児への無差別銃撃を含むパレスチナ市民への無差別攻撃を繰り
返し、1400人を超える人間を殺戮した「ガザの虐殺」の首謀者が授与する賞の受賞記念スピ
ーチであった、という事実には、まったく想いが及んでいないようです。古館伊知郎は単にアナ
ウンサーであって、彼をジャーナリストと呼ぶことはこれっぽちもできませんが、これが残念なが
ら私たちの国の現在のジャーナリズムのレベルなのです。

村上春樹の「エルサレム賞」受賞記念スピーチとは何だったのか。村上の新作人気現象を機
に改めて考えてみたいと思います。

すでに天木直人さんなど幾人かの論者が作家・村上春樹の「エルサレム賞」受賞及びその記
念スピーチについて批判的な見解を発表されています。

■村上春樹「エルサレム賞」受賞に思う(天木直人のブログ 2009年2月25日)
http://www.amakiblog.com/archives/2009/02/26/#001363

が、私は、天木さんなど幾人かの論者とはまた別の角度から、村上春樹「エルサレム賞」受賞
の報の当初から私として不思議でしかたなかったことについての私の観察を述べてみること
にします。私が不思議でしかたなかったこととは、私の次のような違和感にほかなりません。

メディア、テレビの出演回数を誇るたぐいの凡俗、凡庸、低劣な「知識人」「文化人」風情の村
上春樹の「エルサレム賞」受賞評価というのならば、私も納得することもできるのですが(もち
ろん、負の意味でですが)、なぜこうもやすやすと自らを民主主義者と自称する人たち、また、
自らをデモクラティックと誇称するメディアが少なからず、というよりも寡聞の限りにおいては
圧倒的に村上春樹の脆弱愚昧、こけおどし(見せかけは立派だが、中身のないこと)ともいっ
てもよいスピーチを称賛してやまないのか。あるいは有体にいって騙されてしまうのか、という
のが、村上の「エルサレム賞」受賞の報を聞いた当初からの私の決定的ともいってよい違和
感でした。

当時を振り返って、その奇なる図を少しばかり援用してみます。まずはマスメディア(中央紙、
地方紙)からいくつか。

●天声人語(朝日新聞 2009年2月19日付)
村上さんは人間を「壊れやすい卵」にたとえた▼(略)「沈黙より、メッセージを伝えることを選
んだ」という。表現者としての重い決断だったに違いない▼(略)村上さんの言葉が、憎悪の
連鎖を断ち切れない大地に深く染みていってほしいと願う。

●エルサレム賞の村上春樹氏(熊本日日新聞「新生面」 2009年2月17日付)
▼授賞式での記念講演で村上さんは、(略)「欠席して何も言わないより話すことを選んだ」。
▼(略)ガザだのハマスだのイスラエルだの、固有名詞は出てこないものの、今回の武力攻
撃への激しい悲憤は伝わってきた。文学の力とも言える。

●斜面(信濃毎日新聞 2009年2月17日付)
自分のことをたたえる相手を、公の席で批判するのは勇気が要る。作家の村上春樹さんが、
それをやった。(略)作品が世界の30以上の言語に翻訳されているという村上さんだ。メッ
セージはイスラエルの人々ばかりでなく、世界中に届いたことだろう。

私のもとに毎週配信されてくる「民主」的なメールマガジンからもいくつか。

●『マガジン9条』NEWS(2009年2月18日 vol.183)
作家の村上春樹が、エルサレム賞の授賞式に出席し、そこで、スピーチを英語で行いました。
Always on the side of the egg (「いつも卵のそばに」)とタイトルが付けられたそのスピーチは、
全文英語も翻訳も、ネット上にいくつか出ていますから、検索して、是非、読んでみてください。
私は、胸がいっぱいになりました。(水島さつき)

●アムネスティ・アップデート(2009.2.19 通巻363号)
ガザの破壊された状況と封鎖問題に注目していたら、スリランカがたいへんな状況になって
いるようです。作家の村上春樹さんが、先日、エルサレム賞の受賞式で言った「硬く高い壁」
(システム)と「壊れやすい卵」(私たち)。人権とは「卵」のためのクッションの役割なんじゃな
いかと思ったのでした。

●非戦つうしんミディア427(09.2.27)
村上春樹の「卵と壁とシステム」
私も原文と翻訳を見て、非常に素晴らしいスピーチだと思いました。

見られるとおり、メディア、ミディアを問わず、そして革新的と保守的とを問わず、異様なほど
の村上スピーチ評価で一致しています。この異様なほどの村上礼賛が上記のような「報道
ステーション」メインキャスターの古館伊知郎の埒もないコメントに反映され、かつ、ある種の
ポピュリズム現象ともいうべき村上の異常な新作人気現象の大きな一因にもなっていること
は見やすいところでしょう。

しかし、言葉には言貌というものがあります。 言葉が持っている貌(かお)という意味です。
どのような場で発せられた言葉なのか、どのような状況化で発せられた言葉なのか。 その
言葉が発せられる場、状況によって、当然、言貌は異なります。貌はときには仮面である
こともあります。書かれた言葉、話された言葉、つまり表層に現われた言葉のみが真実な
のではありません。食言、偽言、軽言、甘言のたぐい、綻びを糊塗しようとする言葉も表層
の言葉です。

私たちはある感動に襲われたとき、見えない叫びを発することがあります。人はそれぞれ
の心の中に見えない叫びを持っています。言葉にもならない呻きのようなもの。私たちは、
その中に真実があることを直感的に知っています。だから、人が人を評価しようとするとき、
私たちは決して表層の言葉によってだけでは評価しないでしょう。そういうとき、私たちは、
その人の発する言葉の中にある貌を見ているはずです。

さて、村上春樹の「エルサレム賞」受賞記念スピーチの言貌はどういうものだったか?

「私はいつも卵の側に立つ」という言葉が発せられる場として、「ガザの虐殺」の首謀者の
住むエルサレムという土地を選択したことは正しかったか?

状況化の問題として、パレスチナ自治区ガザ地区で1000人以上ものパレスチナ市民が
殺戮された直後に「私は本日、小説家として、長々とうそを語る専門家としてエルサレム
に来ました(聴衆から笑い)」と語った彼のアイロニーはアイロニー足りえたか?

私はいずれもノーと言わざるをえません。どうしてイエスなどといえるでしょうか?

それを上記のとおり、自らを民主主義者と自称する人たち、また、自らをデモクラティック
と誇称するメディアの多くが絶賛してやまないのです。私はこの一群の人びとの感性と思
想の貧困を思います。

1988年に脳梗塞のため79歳で死去した大岡昇平は、かつて日本芸術院会員に推挙
されることがあったとき、「さきの大戦で、私は捕虜になるという汚点をもっている。そうい
う人間が、国の名誉ある会員になるわけにはいかない」(毎日新聞、1971年11月30日付)
とその推挙を辞退しました。この言葉の中にフィリピン戦線で捕虜となり、『俘虜記』『レイ
テ戦記』などの名作を残した大岡昇平の矜持でもあり、悲しみでもある言貌を見ることが
できます。私は大岡昇平のアイロニーは好きですし、支持することはできるのです。


東本高志@大分
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp




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