[CML 002440] Re: 敬称の問題について〜

higashimoto takashi taka.h77 at basil.ocn.ne.jp
2009年 12月 23日 (水) 10:58:07 JST


先に私はCML 002419で「呼称の使い分け」の問題を「日常的な『差別』の体系」と書きました。

どうして私はこの問題を「日常的な『差別』の体系」と考えるのか。そのことについて私の意を汲み
とっていただくためにはあと少しの説明が必要なのかもしれません。その意を少しばかり説明させ
ていただいて、この問題については私としての最後の投稿ということにしたいと思います。

が、その前に、増田都志美さんの「東本さんも、新人女性議員を『ちゃん』づけでお呼びになるの
はおやめくださるでしょうから」(002423)というご意見に若干のお応えをさせていただこうと思いま
す。増田さんの上記のご意見は、おそらく私がCMLに先の9月に発信した「Re: 民主党女性議員
当選者40人の思想及び連絡先」の文中にある「福田衣里子ちゃん」云々という表現に関わって
のご指摘であろうと思います。

■Re: 民主党女性議員当選者40人の思想及び連絡先(CML 001214 2009年9月2日)
http://list.jca.apc.org/public/cml/2009-September/001195.html

この件については増田さんのほかにも私のもとに「若い女性を低く見る東本さんの意識を感じず
にはおれませんでした」という私信によるご批判が寄せられたことがありました。そのご批判に私
は要旨次のようにお答えしたことがあります。

「私の投稿を『女性蔑視』と捉えられたのであれば私の表現不足をお詫びします。しかし、福田
衣里子さんはまだ28歳で私の息子と同年齢です。彼女の親の世代として彼女をある意味親し
みをこめて『ちゃん』づけしたにすぎません。それに私のメールの応答の相手方がはじめに福田
衣里子さんを「福田衣里子ちゃん」と記しておられたことへの応答という側面もあります。決して
『女性蔑視』の投稿をしたつもりはありません。ご了解いただければ幸いです」

この件について私とともに「ちゃん」づけ使用で批判されたもうひとりの方がいらっしゃいます。
その方は批判された方に次のような返信をしたためられたようです(私のもとにCcで送付され
てきたものを私信ですが転載させていただこうと思います。内容的にプライバシーの侵害には
ならないように思いますので)。

「私たちの世代では、可愛らしい彼女は『ちゃん』としか呼びようがないのです。ただし、ここに
は国会議員となってしまった、つまりは、権威・権力を纏うことになってしまった彼女を、いつま
でも私たち市民の側の人であって欲しいとの願望を込めて、身近なお嬢さんみんなにつけて
呼ぶだろう『ちゃん』をつけて呼んでいます」。「私はむしろ、これから「適齢期」(死語ですね)に
入ろうとする少女が、C型肝炎ウィルスキャリアであることをカミングアウトし、マスメディアに露
出されることを選んだ決断力に、尋常ではない覚悟を感じます。ただただ可愛いだけの女性
ではないでしょう。だからこそ、これからの彼女の成長に目が離せないと感じるのですが・・・」。
「でも、いつまでも『ちゃん』「」づけで呼べるヒトでいて欲しい、とは思いますね」

上記のもうひとりの方のご意見に私はまったく同感です。あえて引用させていただいたしだい
です。私は新人女性議員を(潜在的にも)侮蔑する意志を持って「ちゃん」づけをしたわけで
はありません。増田さんにもご理解いただければ幸いです。

さて、「呼称」の問題についてです。

増田都子さんは、「呼称」の問題は、「個人の感じ方に基づく選択の問題でしょう」(002431)と
おっしゃいます。そういう側面があることは私も否定しません。しかし、この問題は立ちどまっ
て、もう少し深長に考えてみる必要があるように私としては思います。先に私はこの問題につ
いてあるMLで問うた若干の文章を引用しました(CML 002419)。しかし、先に引用した文章
には続きというか、前文がありました。その前文が私はなぜ「呼称の使い分け」の問題を「日
常的な『差別』の体系」と考えるのか、についての説明にもなりえているように思いますので、
以下、その要旨を転載させていただこうと思います。

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ひとつの例として、私たちとしてどれほど「心からわき出る自然な言葉」として日常的に「先生」
という言葉を用いているだろうか、ということについて考えてみます。

私もある程度長年、大学や予備校で教鞭をとってきた身ではありますが、その経験を振り返
っても、私たちは安易に同僚を「○○」さんではなく、お互いを「先生」と呼び合うことの方が
多かったように思います。その「先生」はいうまでもなく「心からわき出る自然な言葉」ではあり
ません。

学校の外でも人さまから「先生」と呼ばれることが多い。教え子及びそのご両親から「先生」と
呼ばれるのはまっ、わかるのですが、飲み屋などに行ってもママさんや居合わせたお客など
からもわけもわからず「先生」と呼ばれることも多い。

こういう風潮は当然「世間」にも持ち込まれます。少なくない「世間」の人たちは、お医者さん、
弁護士、議員、教員などの職種を持つ人間をわけもわからず「先生」と呼び習わし、わけも
わからず尊敬したりもします。こういう「尊敬」も「心からわき出る自然な尊敬」とはとてもいえ
ません。

なにゆえにお医者さん、弁護士、議員、教員などの職種を持つ者だけが「先生」で、ふつうに
まじめに働いている人たちは「先生」と呼ばれないのか? 私はある環境関係のMLで問う
たことがあります。「ひとつの『運動』あるいは『とりくみ』を長く長く、熱心に続けている人はた
くさんいるのにその人たちは「さん」づけで、たまたまその『運動』の応援に来たにすぎない国
会議員や弁護士のみがなにゆえに『先生』なのか? 私は釈然としない」と。

人間が対等な存在である以上、このような日常的な「差別」の体系(だと私は思うのですが)
は「人権と民主主義」という価値を尊ぼうということで結ばれた私たちとしては《意識的》に掘
り崩していく必要がある。そういう《変哲もない日常》の中での私たちとしての仕草を変えてみ
るところからほんとうの民主主義の第一歩も始まるというべきではないのか。私はそう思うと
ころがあるのです。
(以下、略)
━━━━━━━━━━━

以上、私の考えです。はじめにも述べましたが、この問題については私としての最後の投稿
ということにしたいと思います。


東本高志@大分
taka.h77 at basil.ocn.ne.jp




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